南米の大地に生きて「移民根性」

ありがたい一冊
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先日からふたたび南米移民に関する読書に没頭していますが、以前から「ボリビア、アルゼンチン、パラグアイ、ドミニカあたりの本はもう少し読みたい」と思ってりましたが読み出すと止まらないので離れておりました。

ほんと、危険物取扱注意です。それぐらいインパクトの強い本ばかりです。

今回は久しぶりに数冊古書を購入しましたが、なにを選ぼうとか迷ったあげく「伊集朝規」著作の「移民根性」を読むことに。本日はボリビアのお話。

(伊集といえばダバダ〜♪しか思いつかない…)

以前にも書きましたが、ボリビア移民は大きくは3つのパターンに分かれます。まず、初期ペルー経由で西からアンデス山脈を越えてボリビアに入る前期と後期。戦後ブラジル・サントス港を経由してボリビアに入るパターン。

私の興味は特に初期の西側ルートにありますが、その時代の情報は非常に限られています。その時代の情報は本当に少なくて…。

そして日本が大東亜戦争でハッスルしていた頃のボリビアは…

第二次世界大戦が始まると、29人の日系ボリビア人のみがアメリカ合衆国に送還された(日系人の強制収容)。しかし、それ以上に地方政府が排日に関する法律を制定しなかったため、戦争は日系ボリビア人の居住者に影響を与えなかった

つまりペルーから入った人々も見つかると命が危ないのでボリビアへ逃げ込んでも静かにすごさないとまずい時期でもあり、余計に情報が少ない時期。

さて、今回購入した「移民根性」の内容を知らぬまま読み始めたら、なかなかの代物でした。1954年(昭和29年)東側ブラジルサントス港からの移住詳細が克明に「そこまで記録してるか!」という内容で…またも移民沼へと豪快にダイブ。

(沼地を泳ぐので疲れるのですよ…)

ちなみにどんな人が残した日記かと言うと…

ボリビアの僻地にたった一人送った琉球政府社会局移民課の嘱託に与えられた指示としてはあまりにも広範囲にわたるもの。一国の大使、公使あるいは領事の要務と村長、村医、学校長責任を一介の日雇いに指示したようなもの。しかも移住地は事務所を設置するよう指定されたサンタ・クルス市から100キロメートル離れた遠隔の地にあるにかかわらず在勤した7年間、中古ジープ1台を購入使用する予算すら与えられなかった。 -p.362

さらっと読めば「へー、そーなんや」という文章ですが戦後占領下の沖縄を「琉球政府」と呼ぶ言葉づかいからして活動の難しさがプンプン漂ってきます。実にややこしい時代の記録です。

 

本書に描かれる移住者の世界一周航路と大陸横断鉄道の旅

この本は、1958年(昭和33年)に第5次ボリビア移民団からの様子が日記形式で詳細に書かれています。探せばなんでも出てくるYouTube。その年の東京と、翌年の沖縄の様子が簡単に確認できます。東京は復興中、沖縄は占領下です。

ご覧のとおりコンクリートモルタル造りの建物も多く道路にはたくさんの車。東京は鉄道やモノレール、遊園地まである時代に移住をしていたわけです。その頃に移住の話です。

内容を一切承知せず購入したのですが冒頭から一瞬で没頭しました。

船に揺られること約2ヶ月でブラジルへ到着し、預け(手)荷物検査などもなくトランジット扱いで移民専用列車へと乗り換え、ブラジル内で日系人がいる駅などでは歓待されるもボリビアに入ると何もなく、サントス港から1,400キロ、約2週間の鉄道旅だったそうです。

つまり約3ヶ月かけてボリビアに到着。

1958年に地球の裏側から来た日本人がなぜブラジルで手荷物検査も受けずに専用列車に乗り換えて国境をまたぐボリビアへ通路支障なく移動できたのか?それは先発のブラジル日系移民が万難を排してランドオペレーションしたからだそうです。

(万全の根回しによるこの連携プレイはすごいことだと思う…)

そこへ至る船内イベント「学童運動会」などの写真を見ながら「この先の苦労を知らぬ子と、少しだけ知る親と、すべてを知る船員や関係者。なかなかドロドロしてる世界だな」とか思いながら一気読み。

戦後の混乱期を抜けつつある時代でしたから、ある程度海外移民もパッケージ商品化されていたとはいえ、実話は生々しさが違います。

どーです?下の写真。最初は屋根のある列車ですが、椅子は硬そうな木製ですよね?この椅子で10〜15日間の鉄道移動は拷問でしょ?しかもボリビアに入るとサンタ・クルスまでは屋根のない列車移動です。もはや荷物扱い。

庶民の移民というのは昔も今も「お金儲け」です。苦労がなければ海外へ出る必要もないですからね。いま日本へ入って来る人も、海外へ出て行く人も、観光以外はすべて「お金儲け」。良し悪しではなく、その感覚がいまの日本(人)は希薄ですよね。

 

余談 : 南米専門の旅行会社といえば?

ここまで書いて、ふとブラジルの旅行会社「ウニベル」と「ツニブラ」を思い出しました。旅行会社というのはあちら側の話で、日本から見れば現地手配のランドオペレーター。

どちらの会社にも世話になったことがありますが、ウニベルは2019年に倒産、ツニブラも2020年に従業員へ会社譲渡という…結果として精算の流れ。

(どちらのニュースもかなりショックな出来事です)

ツニブラ情報を漁っていると日本ブラジル中央協会のサイトにこんなことが書いてありました。

日本とブラジルを結ぶ架け橋としての旅行会社を目指して日伯交通社という社名で創設されましたので、そのポルトガル語名のTURISMO NIPO-BRASILEIROのイニシャルを集めてTUNIBRA(ツニブラ)としたのが、社名の始まりです。

ツニブラが正式に創業したのは昭和24年(1949年)2月、終戦から数えて4年目でした。当時のブラジルには、日本大使館も領事館もなく、正式にはブラジルと日本との間には国交もありませんでした。ブラジルに住む日本人が戦後の日本を訪ねようにも、その方法も手段もありませんでした。昭和24年(1949年)になってようやく、当時日本の権益代表であったスウェーデン王国の好意により、在外の邦人が海外に旅行できるようになりました。もちろん、日本国旅券などは存在せず、すべてスウェーデンの旅券で旅行しなければなりませんでした。つまり、ツニブラの発足は、当時ブラジルに在住する日本人達からの強い要望があったことに大きく起因しています。ツニブラがサンパウロ市中心のConselheiro
Crispiniano通りに本社を開けたのも、すぐ近くにスウェーデンの領事館があったからです。このツニブラを創設したのは3人の日本人移民でした。

そうなんですよ。昭和24年(1949年)2月に創業とあるとおりです。

それ以降の移民手配はなにかしらツニブラが絡んでいたと思えば、トランジット手配がすんなり進んだことも想像容易。

南米移民船のハブとしてはペルーのカヤオも同じように繁盛しておかしくないはずですが、当時の航海ルートは西周りでアフリカ希望峰から真西へ向けサントスが最短というルートや「ペルーのサトウキビ移民の凄惨ではハブにはなれんよな」と思ってみたり。

余談ついでに…

当時のブラジル政府は移民に寛大だったのか、それとも国民性が大らかなのか、ブラジル以外の日系移民がブラジルに不法入国した際の連れ子が無国籍の場合、その子に国籍を与えてくれました。

最近でも奴隷もどきの就労状況がニュースになるところをみるに、アメリカに勝るとも劣らない奴隷制度時代からの移民超大国ブラジルならではの対応にも見えます。移民のあしらいが手慣れてますよね。

アングル:ブラジル社会に巣食う「奴隷労働」 孤児を襲う悲劇
ブラジル北東部の小さな街で暮らすエリザさんは、外出するときは常に、かつて自分の家族だと思っていた人たちに会うのではないかと脅えている。
ワールドウオッチ:制度廃止から1世紀超えてもブラジルでくすぶる「奴隷の芽」=松本浩治 | 週刊エコノミスト Online
ブラジル 今なお終わらぬ奴隷労働=松本浩治  1888年に奴隷制が廃止されたブラジルで、奴隷問題が再燃している。労働社会保障省の奴隷労働撲滅検査部門は、今年1月から5月13日までに、少なくとも500人...

しかしこの話はなかなか重く、結婚か事実婚か分かりませんが路頭に迷えば、子どもが無国籍のままブラジルへ不法入国したわけです。日本人でもこの状態でしたから、いま日本へ入国する諸外国の人とその子にも同じことが起こると理解すべきです。

さて、日本で生まれた出稼ぎの無国籍子はどうなるのか?たぶんすでに増えているはずです。

政策転換で実質「移民受入国」となった日本:政府は真正面から国民に説明を
2019年の「特定技能」在留資格導入で、日本は実質的に「外国人の移民を受け入れる国」となった。人口減による労働力不足と少子高齢化の高まりを受け、地方の自治体では「外国人受け入れは地域社会の維持に必要」...

 

ボリビアでの「加那よー天川(かなよーあまかー)」

よもやボリビア移民の書籍から琉球舞踊にたどり着くとは思いもよりませんでしたが、こちらも挿絵で紹介されており、無学の私は「加那よー天川って?なに?」というレベル。

これは移住地創設2周年記念祝賀会でのお話し。

どの国への移民も初期の話は壮絶ですがボリビアも1〜3次移民は過酷を極め、筆者によると「身の毛のよだつ」ものと理解されています。

移住者の一人である長山哲氏は「ボリビアに平和の地を求めてやってきた私たちは、沖縄で身にしみてあじわった敗戦の憂き目を再度味わわされたようなものだ」 p.253 

その場所で目にしたのがこの写真。

「加那よー天川」の意味は現代語訳だと「愛しい人よ」だそうで、そのひとのことが好きすぎて食事も喉を通らないぐらいのゾッコンLove(古っ)ということでしょうか。こういう踊りのジャンルを「雑踊(ぞうおどり)」と呼ぶらしいです。落語だと創作落語みたいな感じでしょうか。

年配の方がこれを聴くと曰く高校生の頃を思い出されるそうです。

私が興味をひかれたのは舞台袖の聴衆の熱視線。全員が食い入るように見ています。溜席状態。

子どもたちのアイデンティティがこうして醸成されたわけです。ボリビアのジャングルで琉球舞踊となれば複雑になって当然です。

探せばなんでも出てくるユーチューブ。

愛する人に手ぬぐいや帯締めを送る歌詞の通りに演舞が進みます。これがボリビアの即席青空演舞場での出来事ですか。なるほど。

終戦後、何の音楽もない村々で楽しいものといえば村芝居であった。村芝居の舞台はアメリカ軍の使い古したカバーやテントを利用したものが多かったが、沖縄移住地の舞台も村芝居の舞台をそのまま移動したかと思えるものだった。変わったところと言えばモータクーの葉を利用した飾りがついていることだろう。濃緑のカパカパのカバーの中からなつかしの三味線の音が聞えてきた。まるで郷里の村芝居の見物席に座っている感覚である。だかここは南米大陸のドまん中、しかもアンデス山脈の裾野の大平原、いや大々平原の真っ只中だと思い直してなにかしら感激しみじみ、三味線の音に耳を傾け、その昔、村芝居の人気者だったであろう出演者の手ぶり足ぶみを鑑賞した。

今回はじめて知った「加那よー天川」ですが、少し思いを馳せまして…

自分が沖縄の人で、ボリビアへ移民して、ジャングルを切り開いた殺風景な場所の即席舞台で、むかし聴きなれた故郷の曲が流れたことを想像しますと、涙が流れる懐かしさだったかと思うと…

読んでいるこちらも涙がでてきますな。

 

ジャングルでの結婚式

日常起こることは、所構わず。

人が死ぬこともあれば、赤子が産まれることもあれば、愛し合って結婚することも。がしかし、そこはボリビアの奥地。

この写真をみたとき「そーか、ボリビア版瀬戸の花嫁か。しかしこんなに川を渡って嫁をもらいに行くなんてスゲーな」とか呑気に想像していたら、これは川ではなく、川の氾濫でクリーク(水路)に泥水が流れ込んだせいで、幅30メートルほどの水たまり(というより、見ての通り溜池)が出来てしまい、このドラム缶イカダが登場というシーン。

著者曰く「一生忘れられそうもない珍風景であった」らしい。

私も本書が「一生忘れられそうもない珍書」になるインパクト。

日本の夏の風物詩「線状降水帯」なんてかわいいもんですな。

その後、いまで言うところの結婚式「二次会」の写真がこちら。これまた強烈なインパクト。注釈通り未開のジャングルを背に横一列で宴会。

この写真を見た時、私は同時に沖縄戦のことを思い出し、火炎放射器で焼き払われたあの無惨な戦禍を越えてたどり着いたボリビア…同じDNAの人々が…不思議な感覚でした。

余談ですが、どの写真もきれいに撮れてますよね。カメラとフイルムを持ち歩き、1枚も無駄にできなかった時代でこれだけバッチリ収めたというのも素晴らしいですよね。デジタルアーカイブで公開するだけでも貴重な写真の数々だと思います。

 

1958年7月5日 エル・アルト空港からペルーのリマへ

かなりニッチなメモですが知らなかったもので…。

(私もまだ歳が若い…)

この日「パナグラ機に搭乗」と書かれていたのですが、私はパナグラ機がなにかを知らない。

写真を見ると「PAA」と書かれているのでパンナムであることは想像できたものの「グラ???」が気になって調べたら「Pan American-Grace Airways」なる航空会社だそうで、いわゆるキムタクとおなじノリ。

(じつはパンナムも私の年齢では「聞いた話」で見ていない世代。せいぜいテレビcm)

どうやらペルーの「グレースアンドカンパニー」との共同運行便らしく、民間航空機のジェット化は1960年前後からですので、この機材で移動されたというのは単なる移動とはいえ贅沢な話だろうと思います。珍しくも希少な1枚。

パナグラは後にかの有名なブラニフ航空に買収されたものの、ブラニフは1982年に破産。

どの会社も私がガキの頃に消えた航空会社ですから知る由もないですが、戦後移住の移民はアリのように地を這う努力でコツコツ頑張るなか先人や手配者は飛行機で東奔西走。なんとも時代の移り変わりを感じます。

当時の機材はダグラスDC-3のようです。

Douglas DC-3 Gallery – Pan American-Grace

これまた余談ですが、当時のルートが気になったので調べると…

Screenshot

これだけでは判断できませんが、今から70年前はニューヨークとマイアミがハブ機能というのが興味深い。南米もパナマ、キト、グアヤキル、リマ、ラ・パス、アントファガスタサンティアゴという文字は見えますがどれもハブ機能ではなし。ゴールはブエノスアイレス。

小文字の接続便を見るとエクアドルとボリビアが東西に充実しているように見えます。もちろんパナグラ以外のルートマップを見れば各社の戦略が見えますが、パナグラでこれですと、今では経済圏がすっかり変化したことや細分化されたことがよく分かります。

この地図で見るとパナマがヘソというのもよく分かります。

「あれでも……一応検索してみるか」と思ってYouTubeを見たら、なんでも出てくる!どことなく日本人DNAを感じさせる顔立ちの乗客も。DC-2の乗客でこの雰囲気ですか。なるほど。

 

世界でも特殊な沖縄人と日本人のアイデンティティ

今回最大の収穫ポイントはここです。沖縄人のアイデンティティの複雑さ。

戦後沖縄からのボリビア移民についての個人書籍を読むのは今回が初めてでしたが、ウチナーンチュの立ち位置が少し理解できたように思います。ザックリと乱暴に言えば「沖縄という言葉で括ったところで、沖縄の人々も一枚岩ではない」ということ。

逆をいえば「沖縄という言葉だけが唯一括れるキーワード」。

(だからややこしい)

南米移民史もようやく全体が掴め、自分がどのあたりの情報で迷子になっているのかも把握できるようになりましたが、そこで疑問に感じたのが沖縄の人のアイデンティティ。もうすこし細かく捉えると「琉球王国の末裔」であるアイデンティティの複雑さです。

そもそも小さな諸島からなる独立した琉球という王国が日本に帰属したのは、つい先日の1872年から1879年にかけて。

その20年後の1899年にハワイへの移民が始まり、その後フィリピンへ行った人も多かったとか。そして南米各地へ続々と出かけ、大東亜戦争ではある意味本土防衛の犠牲で焼け野原となり、戦後ふたたび呼び寄せ移民や日本政府の政策としての移民。

1879年3月27日 「沖縄県」の設置 – 沖縄県公文書館
沖縄の公文書を扱っています。

ふり返ると過去130年ずっと移民の歴史です。そして各回の沖縄移民は誤解を恐れずに言えば「すべて分断している」と感じました。

本書はボリビアの話ですが、ハワイ、ブラジル、アルゼンチンといった移住地ごと、移住時期ごとに境遇が違うことで、アイデンティティも異なるということ。しかも小刻み。普通の認識だと歴史は途切れませんが、区切った理解が当たり前。

自分の意思で分断しているのではなく時代に翻弄されている印象。

琉球王国、廃藩置県以前、沖縄県、戦争、米占領下、本土復帰後など軸足が多すぎ問題。すべて沖縄の話なのにひとくくりに出来ない複雑さがあるんですよね。

戦争中は洋上から艦砲射撃を喰らい、庶民はガマに隠れ、先にハワイへ移住した沖縄出身の日系2世が「出てきなさい」とアナウンスし、それに答える沖縄県民。

さらにややこしいのが内地と異なる戦後復興。なかでも占領下は複雑怪奇。お金の流通ひとつとっても銀行券、政府紙幣、米軍票などカオス。そこでもハワイのウチナーンチュに助けられます。

ジンバブエやベネズエラほどではないですが、1946年の日本は年率520%程度のインフレだったそうです。物資不足に品不足。敗戦国民として生きるほかに手がない。海外へでも行かないと生きていけないと思うのも当たり前。下の動画を見ますと翻弄具合がよくわかります。沖縄からハワイや本土へ向かう捕虜の姿。

自分が育った時期で境遇が異なりすぎて3つの祖国、4つの祖国といった感じです。しかし間違いないことは「そこに沖縄がある。あった。そこの血筋が今のわたし」という思いを巡らすことが出来るというのがウチナーンチュの強さでもあるんでしょうね。

いわゆる琉球ドルの変遷を知ると、惨状と混乱を経ていまも日本語、日本円、琉球文化が残る場所であることに不思議な感覚を覚えます。普通なら公用語は英語ですし、そもそも近代史で盗られた領土が元へ戻るなんてあり得ない話。

27年で5回も通貨が変わった沖縄 つくられた基地依存経済と3次産業の拡大 | 女性自身
去年まで使えた通貨が今年からドルに。その14年後には円に―。こんなふうに頻繁に通貨が変わったらどうなるだろう。沖縄には、アメリカ統治下の27年で通貨が5回も変わった、いや“変えさせられた”歴史がある。...

こんなことを理解できるのも(古)琉球王国や神武天皇という2600年以上の歴史幅で物事を見れる特殊事情がありますよね。そこになにかしらの線を引き、結界を作れてしまう。他の国の国史は短いですから普通は「アイデンティティ=自己証明」が精一杯です。

沖縄出身の海外移住者と話したことがないですが、沖縄でも「日本人」なのに「ウチナーンチュ」とか「ヤマトゥンチュ」という言葉が示すように、たぶん移住先母国語では「ジャパニーズ」日本語では「ウチナーンチュ」と説明されるのではないかと想像します。

(よく「沖縄県系人」とか言われるあれです)

さらにややこしいのは、戦後日本はアメリカの占領状態が令和も続く「主権なき国家運営が普通」という平和ボケ状態ですから沖縄県で起こる米軍基地問題との温度差も開きすぎ。

(おかしいことが普通になりすぎている問題)

移民2世以降はアイデンティティ消化に苦労するそうですが、それは最低でも大和民族である日本人、琉球王国であった沖縄県人、生まれ育った国籍の3つを背負うややこしさ。違いを明確にしようとするほどアイデンティティの境界線を可視化する行為に走る結果つまらない軋轢も。

(それだけ複雑なことをまとめられる視点を持っているとも言えるけどね)

ウクライナや中東問題もこの問題の真っ最中。日本のような血統という概念は学んだ人以外は理解不能でしょうね。そして、それぐらい奇跡的な民族が日本人であったり、沖縄人であったりということにもなります。

巻末のあとがきには「もっと書きたかったけど自費出版故とページ数の兼ね合いでこここまで」とありました。正直、もっと読みたい。移住者がお客様だとしたら、この本は添乗員顛末記みたいなもので、他書と異なる「いかに移住者の生活を安定させるか」という視点が面白い本です。

冒頭で本書の筆者について「琉球政府社会局移民課の嘱託」と書きました。そのようにへりくだった文ですが別の本には「琉球政府ボリビア事務所長」との紹介も。それはまたべつの機会に。

ボリビア開拓記外伝 疫病・災害・差別を生き抜いた人々
本日は「ボリビア開拓記外伝」をご紹介。以前にメモした「移民根性」という本と同時購入したものです。
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