ニューカレドニア島の日本人 契約移民の歴史

ありがたい一冊
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一般的な移民キーワードといえば「笠戸丸、南米、ハワイ」あたりだと思います。ところが本日はハワイよりもラグジュアリーリゾート感の強いニューカレドニア島の日本人移民について。

本日のメモはあらかじめ余談多め予告しときます。過去にメモした南米移民と異なり予備知識がなかったので頭の中で情報をドットコネクトできず苦労しました。

さて、現地は2024年5月からホットスポット。

先住民カナク人で独立運動指導者クリスチャン・テイン氏らの身柄がフランス本土に収監されたことに対しヌメアで警察車両の放火や道路封鎖など抗議活動が発生。独立派は平和的デモ組織を主張し暴力扇動の疑いを否定。

現状はこんな感じ。フランスは2024パリオリンピックを控えながらマクロン率いる超極左政党の移民政策が大失敗で大統領退陣必至。パリの様子は「ここはアフリカか?」という状態ですから因果応報。

そんなニューカレドニアの日本人移民本ですが…

みなさま、ニューカレドニアって案外遠いんです。オーストラリアやニュージーランドが目と鼻のさき。そんな場所に日系移民ですよ!ウソのようなホントの話。

そもそもなんでこの本にたどり着いたかというと、沖縄県人の海外移民史がとてつもないスケールであることに気づいたときにAIに沖縄県人出没国をたずねたら下記の回答内容でした。その時の回答をそのまま貼り付けます。(ちなみにChatGPTではないょ)

沖縄県から海外への主な移住先は以下の通りです。

ハワイ(ラナイ島)、アメリカ、カナダ、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、メキシコ、キューバ、ボリビア、パラグアイ、フィリピン、グアム、サイパン(北マリアナ諸島)、ミクロネシア連邦(旧ポナペ島・現ポンペイ島)、マーシャル諸島(エベヤ環礁)、パラオ、サモア、トンガ、ニューカレドニア、バヌアツ、ソロモン諸島、パプアニューギニア、オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチン、ウルグアイがあります。

これら以外にも中国(上海)、台湾 、ロシア(千島列島) 、インド 、ミャンマー 、インドネシア(ジャワ島) ・マレーシア、シンガポール 、タイ 、ベトナム 、カンボジア 、ラオスなどが挙げられます。

これらの国々への移住については、様々な文献や記録で確認できる事実があります。

特に中国の上海方面や台湾、東南アジアの国々には、19世紀後半から20世紀初頭にかけて多くの沖縄出身者が渡り、商業や農業で活躍した歴史があります。

また、ロシア領の千島列島などの極東地域にも、戦前に漁業や農業従事者として移住した実績があることがわかっています。

すべての地域を確認していませんが「おいおい、なにやってんだよ沖縄県人!」と思いません?
時代の緊張感や危機意識のなかで「よっしゃ海外へ移住だ!出稼ぎだ!」となるわけで、この空気が緩んだのは沖縄史はじまって以来、いま現在(の失われた35年)が初めてかもしれません。
(これからは赤化問題ですが…)
なかでも気になったキーワードがパプアニューギニア。
かつて関西空港へ乗り入れていたニューギニア航空で向かった先に日本人なんて普通は想像しないでしょ?トンガ、サモア、バヌアツ移民とかいわれてもピンとこないよね。
そこで探してたどり着いたのが本書です。
 
父親はオノ・ポール・キイチロ
よく関西のお笑いでも「つかみが大事」とか言われますが、まったくその通り。冒頭の書き出しから数行読んで完全に心を持っていかれました。
本書著者が岡山県総社市に住んでいたニューカレドニアからの引揚者「小野喜一郎(90歳)」の死亡通知書を受け取ったところから物語が始まり、小野さんがニューカレドニアに残したと思われる家族の消息を著者が掴み、亡くなる1ヶ月前に小野さん本人に情報を届けたことが書かれています。昭和51年のお話。
ここから話はバック・イン・タイム。
小野さんは明治43年、神戸港より琴平丸に乗船、岡山県人76人とともに「ル・ニッケル」のニッケル鉱山の契約移民としてニューカレドニア島に渡航した。同島のチヨ鉱山で働き、四ヶ年の契約が終了後、自由移民としてこの島に留まり、東海岸のワイルの近くで農業に従事し、三人の子供が生まれ、第二次大戦の始まるまで平和な生活が続いていたのである。ところが昭和十六年八月の戦争勃発に際し、本島はド・ゴールの自由フランス(連合国側)についていたので、在留邦人は敵国人としてその日のうちに強制収容され、次いで終戦まで濠州に抑留され、日本に帰還したのである。

陸軍御用船 ことひら丸

ここにもすごい歴史が残っていたようです。
本書によると、WW2勃発時にニューカレドニア島で収容された日本人、その数「1,200名」。そして紆余曲折を経て「現在本島には旧移民は僅かに3名」とあります。たったの3名。
 
ニューカレドニア島の初期移民のイロハ
いつもながらざっくり解説ですがどの島国も辿る歴史はおおむね一緒。
まず島にヨーロッパ人がやってきて、住んでいる人を騙したり、いじめたり、略奪したり、感染症やキリスト教を持ち込んだり。ここで危機感を持って対応したのが日本。対応しきれず植民地と化したのが世界各地の小さな島々です。
(日本は島国とは言ってもサイズが大きいからね)
ニューカレドニアがフランス領となって以降はフランスの囚人流刑地でしたからリゾートのかけらもない話です。
元々この島は「カナク人」が住む地域ですが今では島民26万人のうち40%程度まで下がっているそうです。なんでそうなったのかというのがこの本にも詳しく書かれております。その詳細は省きますが、ニッケル鉱山発見と共に流刑地運営を終了し、次は鉱山従事者がやってきます。
まずはレユニオン島に居付いたインド人労働者を連れてきたそうですが失敗。レユニオン島もラグジュアリーリゾートですが日本人には馴染みが薄いですよね。
そしてフランス領ポリネシアのタヒチやその他の周辺島々に住むポリネシア系の先住民族を指すカナカ人も労働に駆り出されたそうです。諸説あるようですが2,000人従事の記録もあるようです。
つぎは1884年に165名の中国人移民。1891年にインド支那からベトナムの政治犯を含む800名。
そして1893年(明治25年)日本人登場。しかもこの大人数で。
いずれの場合も鉱山労働需要供給に移民が送り込まれる図式ですが、じつはこの日本人移民もホイホイと出かけたのではなく、一度は日本政府として断っています。
これもざっくり書きますと先発の中国人移民がどうであったかを調べ、その地がフランスの流刑地であることを把握し、それならば「拒否」となったのですが、のちに処遇改善をもって「許可」となった政府書簡のやりとが詳細に書かれています。
余談ですが、このやりとりは外務大臣(榎本武揚)と「ル・ニッケル社」との事務的なやりとりの記録です。しかし実際はさらに水面化で袖の下の話もあるだろうと想像していました。
一般的に榎本武揚はオランダ留学で持ち帰った「国利民福」とか「海洋戦略」で評価される方ですが、ニューカレドニア移民の顛末から眺めると「国利民凶」ですよね。よく欧米戦略とは異なると聞きますが、プロセスが植民地経由となれば目糞鼻糞のような気も…。
それはさておき、かつてキッシンジャー国務長官が沖縄返還密約や核の持ち込みに関するインタビューに対して「外務大臣に訊け」と言ってましたが、総理大臣以上に色々な情報を掴むポジションがアメリカの国務長官や日本の外務大臣というのがよく分かります。
 
1892年(明治25年) 広島丸長崎港出帆

これより手前に「移民」の概念はありません。基本は出稼ぎです。それが1885年のハワイ「官約移民」から堰を切ったように増え続け、南洋出稼ぎ案件のひとつが本件。

アメリカは1865年、ブラジルでは1888年に奴隷制度廃止ですが、キング牧師の有名なスピーチが1963年ですから、1900年頃の世界は奴隷社会という場所へ自らの意思で突っ込んだ時代。

長崎の宿屋で最後の一夜を過ごした六〇〇名の移民は、明治二十五年一月六日、日本郵船会社の広島丸に乗船し、はるか南太平洋の彼方、ニュー・カレドニア島へ向け出帆したのである。移民達の手荷物は柳行李と信玄袋、それに毛布(ブランケット)一枚だった。

広島丸は前年二十四年英国サンダーランドで建造された総屯数三,三〇〇屯、三連式蒸気機関の新造船で、当時の日本船には外人の船長が雇われていたが、本船の船長ゼームスも英国人であった。貨物船だから船艙に帆布で寝床を張り、乗客の移民はその上で起居した。

残念ながら船の写真を見つけることができませんでした。

それっぽいサイトに名前を見つけましたが「1916年 清水で難破 3170トン」というコレですかね?どうやら神戸海洋博物館には模型が置かれているようです。

当時の日本で視界に入るほとんどの船は「手こぎ船」や「帆かけ船」ですが長崎(港)は別格

余談ですが、3千数トンの蒸気船は圧倒的勇姿と想像します。大正時代に入ると沖合の貨客船に石炭を積み込む絵ハガキがちょっとした名物土産。貨客船に横付けしたこういう船を「川艜(かわひらた)」と呼ぶそうです。初めて知りました。

下の絵ハガキはおそらく明治時代後期だと思います。左端に写っているオブジェが通称「鉄砲玉」ですが記録によると「2段目の台座は、明治25年(1892)の顕彰による製作物」とあります。

この鉄砲玉が数えきれない人々を見送ったと思うと歴史を感じます。

長崎 大波戸 鉄丸

いろいろと調べていると長崎駅は1897年(明治30年)に現在の浦上駅がスタート地だそうです。

つまり第1回ニューカレドニア移民時の1892年には鉄道がありませんので長崎に集まることが大変な時代。前日までに船や馬車で長崎に到着し「宿屋で最後の一夜を過ごした」ことになりますが、佐久間貞一小伝によると「熊本及天草島民より六百名(内五百名天草島民なりし)」とあり、500名は近郊から集合とはいうものの野宿か?それとも移民宿で休息したのか?と想像。

佐久間貞一小伝 – ニューカレドニヤ移民

そして長崎港の岸壁が整備されたのは1908年以降なので、この時の出稼ぎ移民は沖に停泊した廣島丸に伝馬船やおけつ船でピストン輸送されたんでしょうね。まさに上の絵はがきの雰囲気。

幕末・明治期日本古写真超高精細画像

後の1923年(大正12年)に日華連絡船として上海航路で賑わう「長崎港駅」と乗船場所の「出島(新)岸壁」は目と鼻の先ですね。その31年前の廣島丸がどこに停泊したか分かりませんが、全国から集まった出稼ぎ労働者がニューカレドニアへ向かったことを想像すると、とても感慨深いです。

おくんちの日だけ歩けた、長崎港駅への貨物線鉄橋 : アトリエ隼 仕事日記

出航まもなく左舷に天草諸島や甑(こしき)諸島をすぎ、5日目北回帰線通過、11日目グアム島の東120通過、13日目東カロリン群島通過、16日目赤道通過、17日目右舷にニューアイルランド島通過、18日目ブーゲンビル島通過、25日目ニューカレドニア島到着。

約7,000キロの旅です。当時の蒸気船は約10ノット(時速19km)程度の速力らしく、食事も3食用意されていたので当時の移民船旅としては贅沢であったように思います。

色々な資料によると最初の移民は熊本県人吉球磨地方が多く、それ以外に鹿児島県(特に現在の奄美市など)、長崎県の五島列島や対馬、宮崎県日南海岸地域などの方々も参加されていた可能性があるそうです。

しかし、いつの時代も、どこの国への移民も第一弾は人柱。

明治二十五年正月、榎本外務大臣の垂訓により出稼ぎを決心し、五ヶ年の契約で本島に渡航したのであるが、その結果は実に惨憺たる有様で、無事任期を終了したものは六〇〇名中九七名であった。その中八名は契約終了後も本島に残り、八九名は日本に帰京した。

残ったのは16%、84%が死亡。いつの時代の移民も切込隊はほぼ壊滅、成功者は1割。先ほどの船上写真から9割が消えた想像だけでゾッとします。そこで思い出したのが西表島炭坑の話。

1925年(大正14年)のハワイ日布時事にこんな記事が残っています。「南洋でドン底生活 – ニューカレドニアに於いて千餘名の同胞移民の惨状」。

大正14年1月11日付 日布時事

余談ですが…
日本人移民は1885年ハワイへの国策がスタートで、1896年にはプリンセスカイウラニエレメンタリースクールという日本人小学校も作られ、1898年にハワイはアメリカ領。
植民地化を肯定する気はないですが「日本人の動きは早いが詰めが甘い」印象。
さらに1883年から小型漁船でオーストラリアへ真珠取りへ、1884年から(おそらく漁船で)オーストラリアのヨーク岬半島やフィジー、ニューギニアなどへ、1888年は笹渡丸で(PC鉄道建設に)カナダ、1890年代は続々とアメリカ大陸、1894年にはフィジーとカリブのグアドループ、1897年にはモントゴメリー号でメキシコ、1899年に佐倉丸でペルー。
満州、サハリン、千島列島にも日本人が出没しています。1908年には笠戸丸でブラジルを皮切りにアルゼンチン、パラグアイ、エクアドル、ボリビアなどへの移民が続きます。
いまの日本人にはとても想像できない大量出国ラッシュ。
当時の世界は表層的には奴隷のない社会を謳いながら実態は奴隷賛美に巨石を投じたのが1919年の日本による国連での「人種的差別撤廃提案」。

人種的差別撤廃提案 – Wikipedia

不思議なことに移民先国で日本人の暴動や占領は皆無。その感覚は日本人であれば理解できると思います。(理屈ではない)
よく「島国根性」と言われますが、140年前の世界は船移動が花形でした。そのことが島人の渡航範囲を広げたように思います。いまは飛行機による移動で時間が大幅短縮されているにもかかわらず、日本人にとって海外は遠い場所の印象。そして国内に溢れかえる外国人との問題の数々。日本はどこへ向かっているんでしょうね。
南米移民から南洋移民に話が転じておりますが、当時もし私が欧米人に生まれていたら日本人を叩き潰したいと思ったでしょうね。明治日本人のバイタリティは異常で「死ぬ気でやる、死ぬまでやる」行動力は脅威的。かの戦争も戦死より餓死が多いことで有名ですが、それがマインドコントロールの結果であったとしても、そんなことをやるのは日本人ぐらいです。
 
天国に一番近い島 vs 緑の牢獄「西表炭坑」
思い出したついでに西表炭坑について横道にそれますが…
私の知る西表島情報は2004年にユニマットグループが開発したホテルぐらいですが近年話題になったのが西表炭坑。詳細が動画にもまとめられ、台湾から西表への移民映画もかなり話題でした。

ここで鹿児島と沖縄の歴史を書くとややこしくなるので割愛しますが、西表で本格的石炭採掘は「1886年」とあります。ニューカレドニア第一陣は6年後の「1892年」。
当時西表炭坑の求人話は、すくなくとも九州界隈で知られていたと推測しますが、近所の西表に釣られずニューカレドニアを選んだのか否か?目と鼻の先の西表島を選びそうな人がいてもおかしくないと思いますが、すでに悪評が耳に届いていたのかもしれません。

1908年(明治41年).02.27付 桑港 日刊新世界

 
余談 : まぶいぐみ
探せばなんでも出てくるユーチューブ。本書とよく似た内容の映画が作られていたそうで、話されている内容も瓜二つ。しかし、こちらは沖縄県人移民のお話。
本書によると1905年(明治38年)以降に合計821名の沖縄県人がニューカレドニアへ出かけたと書かれています。

悩ましきは戦後沖縄の立ち位置です。敵性外国人としてニューカレドニアからオーストラリアへと捕虜になった日本人移民。戦争が終われば一旦ニューカレドニアへ戻し、その後各々の判断で日本へ帰国というのが平和脳思考。
実際はオーストラリアから日本へ強制送還されたことで家族だけがニューカレドニアで生き続けたという、かくも悲惨な歴史です。さりとて沖縄に戻って楽かといえば、まったく楽ではない状態。
映像内でも語られていますが、そもそも人口の少ない島ですし、そんな場所に日系移民の末裔がいるなんて想像だにしてないし、現地の末裔もアイデンティティ探しで苦労したそうです。フランス語動画は案外たくさん出てきます。

 

余談 : マカテア島への出稼ぎ労働者
ニューカレドニアについて調べているときに現れたキーワードです。下の地図の右端に見えるのがマカテア島、左下がニューカレドニア。2島間の直線距離は約4.900キロです。

じつはマカテア島にも、日本からの契約労働者がリン鉱石採掘に出稼ぎしていた歴史がありまして、多くは福島県人らしいのですが、それ以外にも熊本県、広島県、富山県など。
時期はニューカレドニアのニッケル鉱山と同じタイミングですが、こちらは横浜や神戸からサンフランシスコ経由だそうで所用日数1ヶ月。マカテア島はどうやら完全に出稼ぎで、南米と比べればわりと穏便に事がすすみ、しっかり稼げたようです。
1966年に閉山したようですが、最盛期の最大輸入国がなんと日本!
普通は肥料や金属加工を思い浮かべますが、時期が時期だけに多少は弾薬などに使われていたかもしれませんよね。別の言い方だと、限りある資源を日本が取り尽くしたとも言えます。
いまひとつイメージが湧かないのでユーチューブを検索したら出てきた!なんとなく「あれ?この顔、日本人じゃね?」という人も写ってるように思うのですが、どうでしょう。

明治時代の日本人移民に関する本を読んでいると、やたらと「植民地」という言葉が出てきます。そして戦争ではなく経済移民として方々の国へ出かけています。おそらく明治維新というプロパガンダが全国へと浸透していたことがうかがえます。
場所に関係なく明治中期から本格的な移民がスタートしているように感じておりますが、当たり前の話としてその手前は江戸時代ですから、ちょんまげに刀をさげて歩いてた人々がほんの四半世紀後に世界のあちこちへ出没しているのはびっくりな話。
この頃の日本人寿命は40代ですから、自分がしたいと思ったことをためらい、後回しにする概念はなかったのかもしれませんが、それにしても後の大戦のはるか手前の話です。
時代が大正、昭和へ進むと「南進論」という南洋史観が台頭し、いずれ戦争へと結びつくわけですが、さすがにその本を読まなくても直感で察知できますね。すでに経済的な「大東亜共栄圏」と言えるぐらい世界各地での日本人出没ぶりに驚かされるばかりです。日本で最初に「南進論」を体現したグループのひとつがニューカレドニア移民でしょうね。
困った時のフーバーアーカイブ。下の新聞は1941年9月26日付の満州日日新聞。日本がアジア一円から資源を貪ろうとしている空気満々の記事。

康徳8年(昭和16年)9月26日 満州日日新聞

かのマチュピチュの野内与吉もすごいですが、半日もあれば島を歩いて一周できるような南太平洋の極めて小さな島に出稼ぎに行った日本人もすごいですよね。もしかするとマカテア島に残る人に日本人DNAが残っているかもしれません。

世界遺産マチュピチュに村を創った日本人「野内与吉」物語 – en1.link

 
余談 : 廣島丸の裏話
本書を読みながら「どうも廣島丸が臭うな」ということで2冊の本を入手。
やはり船のことは陸側ではなく船側からの視点が大事。そこに面白いことが書かれていました。ひとつは「海の墓標 戦時下に喪われた日本の商船」という本。
廣島丸は日本初の(インド)外航定期船となるわけですが、当時世界の雄であったP&O社から恫喝されても航路開拓を決行した結果がいまの日本郵船です。本書を意訳するとP&O社から「容赦なく叩きのめす」と言われたそうですよ。
さらっと書けばそれまでですが、いまではNYKの企業規模がP&Oより遥かに大きいことを思えば、すべての歴史は廣島丸から始まったわけで、それがニューカレドニア移民も運んだわけで、印象深い貨客船です。貨客船からスタートし、その後コンテナ船で稼ぐのか?客船で稼ぐのか。
そして面白い紹介文がニッケルの使い道。
ニッケルは大砲の砲身や砲弾に使用されるなど、近代兵器の性能を向上させるために欠かすことのできない重要な戦略資源であった。日本では満州事変の頃からニッケルで製造された五銭や十銭の貨幣が発行されている。実はこれは、来るべき対米戦争に備え、「通貨」として「輸入されたニッケル資源」の備蓄を行っていたのである。ニッケル資源が五銭や十銭貨となって日本国内に蓄えられていたことになる。「各家庭から平均十七枚の銅貨と七枚のニッケル貨を回収すれば、3万五千トン級の軍艦一隻」を建造できるというのが、昭和十八年に政府が行った金属回収PRであった。
 
もう一冊は「船に見る日本人移民史」。先の本は船史の視点ですが、こちらは船内スペックまで詳細に書かれています。こちらにも興味深いくだりが数カ所。
日本郵船の前身が「日本吉佐移民合名会社(後の東洋移民合資会社)である」と書いてあります。日本最初の移民会社がはじめて手がけた移民がニューカレドニア移民ということになります。つまり日本郵船というのは元々移民斡旋輸送会社ということです。
この船は1891年4月に横浜へと回航されたので1892年の第一回移民はピカピカの新造船でいろんな意味で天国に一番近い島へとお出かけ。

島の鉱山労務者のほとんどは本国から送られてきた囚人であり、労働条件も彼らの想像を超えるものであった。就労して一週間後に彼らは、労働時間が囚人よりも長いこと、労賃が現地人よりも安いことに腹を立て、徒党を組んで暴動を起こしている。会社側は、憲兵隊の出動を要請してこれを鎮圧。吉佐移民会社も狼狽し、善後処置に腐心したしたという。

ニューカレドニア初渡航の年、吉佐移民会社は豪州本土への出稼ぎ渡航の斡旋もはじめ、この年の十一月、五十人の農民をクインズランドに輸送したのを皮切りに、翌年に520人、翌々年には425人、この地方の砂糖キビ農場に送り込んだ。これと前後して、海外渡航、神戸渡航など各移民会社も豪州移民の斡旋を開始し、少数ではあるが、木曜島へのダイバーも取り扱った。

 
余談 : 日本でも屈指の国際港 “長崎” の凄さ
いま海外出国を企むと「NRT、HND、NGO、KIX、FUK」の空港か、もしくは地方空港からアジアや中東経由の移動が一般的ですが、日本最初の国際港は長崎でしょうね。
同時期に下田や箱館、後に横浜、新潟、神戸と外交港が整備されますが、長崎はあらゆる意味で突出しています。長崎港と結ばれてた外国は定期航路だけで以下の歴史。
  • 中国 : 上海、天津、大連(旅順)
  • 香港
  • 韓国 : 釜山
  • 北朝鮮 : (鎮)南浦
  • シンガポール
  • フィリピン : マニラ
  • マレーシア : ペナン
  • ビルマ : ランゴーン
  • インドネシア : ジャカルタ
  • インド : ボンベイ・カルカッタ
  • スリランカ : コロンボ
  • オーストラリア : シドニー、メルボルン
  • ウクライナ : オデッサ
  • イギリス : ロンドン、サウサンプトン
  • フランス : マルセイユ
  • カナダ : ビクトリア、バンクーバー
  • アメリカ : ホノルル、シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴ、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ノーフォーク
ここに不定期航路や中継地を足すと「イエメン : アデン、オランダ:ロッテルダム 、ベルギー:アントワープ 、ドイツ:ハンブルグ、イタリア:ジェノヴァ・ナポリ 、スペイン:バルセロナ、ポルトガル:リスボン、エジプト:アレクサンドリア、南アフリカ:ケープタウン」にも寄港。
最初はポルトガルやオランダと出島の関係からスタートし、すべては原爆で終了。もし戦争をしていなかったら国際港として長崎の栄華は続いてたように思います。
私にとってはちょっと住んでみたいと思わせる場所です。
 
第二次大戦と邦人
やっと本書に戻ります。平和であることのありがたみを感じる部分へと突入。
開戦の前年頃より本島内の電話通話は制限され、市内通話はフランス語と英語に限定された
こんな感じで会話が規制され始めると軍靴の音が聞こえてきます。
1941年12月8日の現地はピリピリしはじめるものの、その日の日本人は半ドンで「この時酒(赤ぶどう酒)をしこたま仕入れて来る人が多く、夜はあちこちで宴会が始まった」とあります。別に進軍パーティー開催ではなく、たまたまそうだったようです。
翌12月9日には「ヌメアから1名のフランス兵士と12、3人の原住民からなる警備兵が来て、日本人宿舎の各所の入口を監視」され、12月10日に1人15キロの荷物だけを持ってヌメアへ移動することになります。
余談ですが、北杜夫の「太平洋ひるね旅」に大正3年移民の藤原さん、前田さんについて書かれており、開戦ニュースの当日も現地の空気はのんびりしていたことがわかります。収容される寸前まで地元巡査と酒を飲んでいたことが書かれています。
集められた場所はおそらくヌメアのセントジョゼフ大聖堂辺りと言われていますが、その当時の写真は見つけられず。そこで数日を過ごし、その後何回かに分けてピストン輸送されたようですが1回の人数は300名。これがガレー船状態で、三日間かけてシドニーまでの船旅です。
今後何処に連れていかれるのか全然不明なので、本島北部に移されるとか、イル・デ・パンに流されるとか、豪州へ送られる等々あちこちで流言がさかんに飛んでいたが、島のヌメアが見える側の小さな桟橋からカップ・デ・パルム号(Cap des Palmes)という、2・3千屯のフランス貨物船の一番船に押し込まれた。
「カップ・デ・パルム」という2,900トンの船は元々アフリカのガボン共和国のリーブルビル、アルジェリアのアルジェ経由マルセイユ間でバナナをピストン輸送する冷凍船だったそうです。その後おそらくフランス軍の軍事徴用船になったものと思います。詳しくは以下のサイトで。

auxillary cruiser Cap des Palmes – laststandonzombieisland

そして「第一陣、第二陣はニューサウスウエルズ州のヘイ収容所、第三陣はラブデイ収容所、家族持ちはビクトリア州のタツ(ウ)ラ収容所」送られました。この史実は20代の頃に何度かオーストラリアへ行くことがあり調べたことを思い出しました。

収容所 – カウラ日本人戦争墓地

この抑留邦人の日本への引揚は、本島の邦人企業のために渡航した人と、旧移民の一部は昭和17年の夏、交換船で帰国した。残りの全員は終戦後昭和二十一年三月、神奈川県浦賀に上陸して、それぞれ内地の縁故先に引揚げた。この交換船は日本政府と連合国が非戦闘員の抑留者を交換することを協定したものである。日本は日本ならびに占領地に抑留した連合国に属する人々を日本郵船鎌倉丸で、東アフリカ・ポルトガル領ロレンゾマルケスに運び、ここで双方を交換したのである。

鎌倉丸(秩父丸)

めでたしめでたし、ではないのです。
たった15キロの手荷物以外は資産も家族もすべてをニューカレドニアに置いて日本へ帰ったことになります。そして本書は残された家族や墓地を訪ねる話へと続きます。
一応ニューカレドニア移民は「5年契約、就労先確約、賃金保証、食料は日本から輸送、社宅有り、医療完備」の高待遇でした。それと比べてブラジル移民はなにからなにまで自己責任という棄民状態であったことも書かれています。
これと似た状況が西表島で働いた台湾人にもあったことは中国語で検索すると出てきます。つまり西表に残っているかもしれない台湾人DNA。
物事はどこから眺めるかで印象が変わりますね。
話をもどし、もし戦争がなかったら「在ニューカレドニア日本人」として一大勢力になっていた可能性が大いにあります。それだけの存在感、労働生産力、そして消費地がありますよね。かつてのバヌアツや、今のセントマーチンのような共同統治島スタイル。
冒頭でふれた通りですが政府観光局サイトに「メラネシア系45%、ヨーロッパ系 37%、その他 18%」とありましたから、いまは民族存亡の危機です。
フランス人が真っ昼間からワインを片手に優雅な時間をすごせるのは今もつづく植民地政策の名残りですが、そのビジネスモデルも終焉へ向かっているようです。

New Caledonia unrest: Nouméa burning, shooting, looting like ‘some kind of civil war’

〜◆〜◆〜
色々と妄想が尽きませんが、やはり歴史を知って自分なりの理解を深めておくことは大事ですね。時代の流れには逆らえないこと、時代が動き出したら生き物のように止められないこと、政治や大企業は民を乱暴に扱うことなどはいつの時代も一緒です。
月並みな感想ですが、たとえ貧しくてもコツコツ努力していれば人間なんとかなるものですが、戦争だけはどうしようもないですね。「職業:人殺し」の人が増えると問答無用です。
読みながら「昔の海外移民労働者=今の国内非正規労働者」を感じました。つまり「有名な海運会社=今の派遣会社」。立ち位置は異なりますがスキームは一緒。
かつて日本全国に22社もの移民会社があり世界中に人間をばらまいて金儲けしていたことはすっかり記憶の外。今の派遣会社が100年後に残っていても源泉は忘れ去られているでしょう。おそらくこの先数年かけて派遣事業は衰退し、半世紀もすれば実相の全体が見えてくると思います。以下、参考サイト。

Association Okinawa N-C – 沖縄ニューカレドニア友好協会(日本語ページ)
Le destin brisé des Japonais de Nouvelle-Calédonie
Le retour des ancêtres japonais. Les recherches identitaires de des…
Le destin tragique des Japonais de Nouvelle-Calédonie
“Le Destin brisé des Japonais de Nouvelle-Calédonie”, sur France 3, retour sur un drame oublié

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