黄金の秘境 インカ探検記

ありがたい一冊
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本日のありがたい一冊は昭和40年に発行された『黄金の秘境 インカ探検記』です。この探検記の内容について述べると、その目的は「日本人移民の同化の調査」であると書かれています。

私の読書の目的?もちろんインカ帝国への興味ではなく、むしろそれを支援した日系移民に関する情報がどのように描かれているかを見つけることです。

色々な本に目を通しているうちにアンデス山脈に沿ってのマヤ文明とか、ティオティワカン文明とかアステカ文明とか、知識が勝手に増えますね。ペルーはアジアで言えばモンゴルみたいな場所で、インカ帝国はザックリ言えば今から550年ぐらい昔に栄えたお話。首都はクスコ。

日本は室町時代です。インカ帝国は琉球王国の少し後に生まれ、ザビエルが来る前に滅んだというと、察しのいい方は「ははぁ〜ん、そーゆーことか」という歴史です。

ということで、肝心のインカ文明は横に置き、私がツボったポイントをいくつかご紹介。

クスコの在留邦人「河村さんと大村さん」

本書の著者は泉靖一、泉貴美子ご夫婦の共著で、旦那はこんなお方。

泉靖一 - Wikipedia

泉さんは55歳で亡くなられたので印象がないのも当然ですね。生きておられたら私世代でもかなり知るところの有名なお方。

それはさておき、今回の登場人物はお2人様。58ページからスタート。

リマの飛行場を出発してから約1時間、時計の針は八時五十分を指していた。在留邦人の河村さんと大村さんが、燃えるような紅の新車で迎えてくださった。中略…クスコの街をホテルへと向かう。 

ホテルへ向かうもフルブックなので「ひとまず、河村さんのお宅に落ち着く」。

そのお屋敷情報がやたらと詳しく記録されておりまして…

100坪ほどの正四角形の二階家で、外観は中国の邸宅に似ている。門をくぐると広い中庭があり、中庭に面したすべての部屋に窓が切られていた。二階は、手摺つきの回廊が四方にはりめぐらされ、幾部屋あるのか、見当もつかない大きさだった。中庭から通ずる階段を昇ると、二階に応接間があり、通される。リャーマの毛で作られたマットが敷かれ、金、銀細工の飾物や、インカ模様のクッション、テーブル掛などが、インカの首都にきたことを覚えさせた。河村さんはバザール(雑貨商)を経営されているが、第二次対戦中に逃げ込んだ山奥が、砂金の取れるところで、その時以来金の仲買をはじめられ、今ではこの町屈指の財産家とうかがう。

このくだりでピンとくるのが野内与吉。「同君は福島県人でアマゾンの源流地帯で、砂金堀りをやっていた」人。マチュピチュの与吉さんがクスコの河村さんと交流していたであろうことは間違いないと思いますが、どうでしょう?

野内さんが採ってきた砂金を川村さんが日本人レートで買取してくれる仲買人。

基本的にはリマで働く日系人が大多数ですがクスコを小さなハブに選んだ理由を知りたいですね。おそらく他国からの移民動向や情報が集まる場所だとは思いますが…。日本の京都に憧れるような感覚でもあったんですかね?

続いて大村さんの紹介。

大村さんは、外語のスペイン語科卒業の方で、やはりバザールを経営しておられるが、そのかたわらインカ帝国のことや、インディオの研究をもしておられ、このお二方のお世話で、クスコ見物をさせていただく日本人は、数えられないほどであるようだ。

こうなると、お2人のファミリーヒストリーを知りたくなるわけですが、ご存知名簿検索サイトで名字はヒットするも下の名前が分からず。

ペルー日本人移民検索 – 海外移住資料館 Japanese Overseas Migration Museum

河村という名字は山口県出身の方が多そうですが…

この大村さんという方もクスコでは有名だったようで野内与吉の回にメモした雑誌「旅」にも「クスコでは外語出身で、雑貨商を営んでいる大村君夫妻に厄介になって…」と書かれています。

世界遺産マチュピチュに村を創った日本人「野内与吉」物語
先日から「クスコの日系人」を気にしながら移民系読書にハッスルしておりますが、本日は「野内与吉」物語です。

総じて河村さんの名前を目にすることが多く大村さんの情報は少ないですが、いずれにしてもクスコの日系ツートップがこのお二人という時代があったようです。

念のため困った時のフーバー邦字新聞アーカイブで確認するとペルー新報に大村さんと佐伯さんを発見。おそらく大村さんは同一人物でしょうね。

この「救済 厚生 資金受付」をどう理解すればよいのか分かりません。ペルー同胞向けか?それとも日本向けか?

(誰か教えて)

大村さんや佐伯さんも気になるが、それよりも「100ソーレス」というお金の価値が気になって検索するとwikiにこんな記述が…

一方で円安が輸出に好影響を及ぼして日本からの輸出が拡大し国内の景気は回復したが、これがダンピングであると世界的に非難されると共に不況に喘ぐ列強各国が経済のブロック化に動き、日本は世界経済から排斥され苦境に立たされた。1940年には100円=24ドル前後(1ドル=4.2円)となった。 wiki – 円相場

(こんな価値で戦争突入したのかよ…)

色々な情報をたどると、おおよそこんな感じ。

  • 1米ドル = 4円
  • 1ソーレス = 0.28円(ペルー中央銀行のヒストリカルレートデータ算出)

これが正しいと仮定すると「1米ドル = 5.7ソーレス」。100ソーレス寄付したということは17.54ドルです。当時の日本円だと70.16円。

昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか? : 日本銀行 Bank of Japan

その当時の小さな単位としては「お米1kg:約40銭、卵1個:2銭前後、味噌1kg:約30銭、ボールペン:10銭前後、石けん:5銭前後」など。食料品や日用雑貨は円ではなく銭の時代。

どれも単位が小さすぎて分かりにくいのでもう少し単位を上げると「東京から大阪間の鉄道運賃:約13円」とありました。70円もあればラジオ、カメラ、冷蔵庫、低価格中古車、貴金属など高価なものが買えたようです。

大村さんにばかり意識が向いていたのですが、文末の数字「累計55,901,60」を見てびっくり。この桁数で換算すると約9,807ドル相当ですよね。日本円だと39,230円かな?なかなかの大金。

トラックだと新車で10台ぐらい?中古車だと3-40台ぐらい?まとまった数を調達して運送会社でも始められそうな大金です。

Card

 

ウルバンバのツーリストホテル

クスコとマチュピチュの中間あたりに「オリャンタイタンボ」という遺跡と、そのための駅がありますがこんなくだりがあります。

その時、四人の白人達が、私達の車に乗り込んできた。カナダの医学者夫婦の二組で、リマで開かれた世界医学大会にきたのだそうだ。「学会に来たついでに、クスコ見物にきたところ、クスコのホテル・ツーリストは満員なので、ウルバンバのツーリスト・ホテルに泊まっているのですよ」と向こうから話しかけてきた。

なんてことはない、単なるつなぎの文章ですが、野内与吉の人生を追いかけまくったせいで「ウルバンバ」というキーワードだけで反応します。

そんなこんなでマチュピチュへ到着したわけですが…

バスの終点前ににあるツーリスト・ホテルで一息入れると、案内人に導かれて、ディーゼルカーで一緒だったカナダ人の方達とともに、城塞の中に足を踏み入れる。
なんてことはない、単なるつなぎの文章ですが、野内与吉の人生を追いかけまくったせいで「バスの終点前ににあるツーリスト・ホテル」というキーワードだけで反応します。

 

ボリビアの日本人開拓地

移民や移住に関する本ではあまり見かけない引用が、「そういえば、この本は『インカ探検記』だったな」と思い出させるページです。

このジャングルは、有名な英国の人類学者フォーセット親子をはじめ、黄金郷を夢見て、あるいは女人王国の幻を描いて、世界の国々から探検に来た人や現地人の多くを呑んでしまったのである。特にエクアドールとの国境周辺のジャングルには、文化人と接触をしたことのない獰猛なインディオが住んでいるという。人間の首の骨を抜いて、熱砂をいれて圧縮首をつくるヒバロ族もいる。いまでは殆どが文化人と接触するようになったらしが、それでもまだ一部分は接触をさけて密林にこもり、旅人をしばしばなやますようである。

おっかない話である。

このあとに書かれてある「第一回入植団々長田中家」でのもてなしの様子が面白いというか、おっかないというか、移住の大変さを感じさせます。

道中の泥とほこりで「おばあさんのようなあわれな姿」に「お風呂はいかがですか?」の声に飛びついて風呂場へ向かうと…

風呂は芝生の裏庭を横切った川っぷちの斜面にある。大木を斜面に倒して、その枝にドラム缶をはさんで下から火をたいているのだ。同じ枝の上に敷かれた細い二枚の板が洗い場で、それも川の上に宙吊りになっていた。

ここで1人放置されたら男の私もブルっとくるかもしれませんが…

途中で聞いてきた蛇の話がよみがえり、木の枝すべてが蛇に見えてくる。川の彼方は、真っ暗やみで、無気味なまでに静まりかえっている。静寂は恐怖の前触れのように感じられて、幻想が湧いてくる。猛獣の目が光ったり、影が動いたりしたように感じられる。逃げ帰ろうと思う心と、今更入浴しないわけにもいかない意地が交錯する。意を決した私は、無我夢中でドラム缶のなかに飛び込み、1、2、3、4…10でパッと飛び出した。家の灯りを見てホッとすると、滝のようにしずくが顔からポタポタ落ちた。「お早いお風呂でしたね」と言われても返す言葉もなかった。

これが日常となれば五感が研ぎ澄まされて当然でしょうね。緊張感が違います。

そして、以前に「新垣庸英」メモで触れたマモレ川の話も出てくる。とはいっても1900kmもある大河ではありますが…

マモレ川へ釣りに出かけた日本人が何者かの毒矢に倒れたのは昨年のことだし、つい最近も、沖縄からの入植者二人が、やはり何処からともなく飛んできた毒矢の犠牲になったということだ。
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ワラールの日本人

について触れてある章ですが、冒頭の文章が面白い。

午前中に乗合自動車で、リマへ行き、ロックフェラー財団から送ってきた弗(ドル)を一日がかりで取ってきた。奨学金は、アメリカにいた時の半分以下に減って、日本金にして一ヶ月五万円ぐらいになってしまった。いくらペルーの物価が安くても、よほどしめないと、調査も発掘もできなくなる。

もちろん面白ポイントはロックフェラー財団。このくだりを読むだけて天野芳太郎がいかに鉄人な行動であったかが分かるというもので、ものごとはどの角度から眺めるかで印象が変わります。

こうしてパトロンとの折り合いをつけながら研究に勤しむわけですが、気づかぬうちによからぬ方へと誘導され、気づいた時にはやってはいけない研究に勤しんでいたというのもよく聞くお話。

〜◆〜◆〜

河村さんにせよ大村さんにせよ、まさか自分の死後に日本でどこの馬の骨ともわからない日本人がクスコの日本人についての情報を探し、身元調査のごとく書籍を漁りまくっているなどとは想像だにされてないでしょうね。

以上、インカ探検とまったく関係ないメモでした。

 

追記 2024.05.18 – 本書登場人物の補足

昨日ペルー在住の方から「河村さん、大村さんは、河村道香さんと大村昌次さんだと思います」との知らせを受けました。1966年発行の住所録「Guia telefonica de la colonia japonesa」に載っているそうです。「佐伯氏(名前不明)」もクスコ在住者であったことが判明しているそうです。

まぁ新聞に載ってるぐらいですからそうでしょうね。

クスコの日系ファミリー
サクサイウアマン(Sacsayhuamán - クスコ市内にある14世紀の要塞遺跡)、1941年。左側:日本人移住者のミキオ本橋氏、右側:クスコ出身の友人、名前は不明(家族写真アーカイブ) ペルーに到...

こういう住所録や電話帳はどの国の日本人コミュニティでも普通に流通していましたが、デジタルに置き換わると貴重ですね。

日本も今まさに電話帳の歴史が終わりを迎えております。私の実家も固定電話をやめました。まもなく人間も消えます。いまでは当たり前の携帯電話の登場で人間が移動しながら情報交換できるようになったことは劇的変化をもたらしていることを実感します。

じつはこの連絡を頂戴したのが日本時間22時頃でしたが、ふたたびクスコの日系人が気になりはじめ夜中0時にスマホで古本を購入。

なんで気になり始めたかというと、今回ほんの小さなご縁でペルー在住の方とのやりとりしているのですがデジタル社会の情報密度、濃度、深度が軽薄になっていることを感じていたところにたった半世紀前の人物について調べることがこんなにも大変なことと思い知らされて、もうすこし調べ事のコツを掴みたい願望と、AIの学習レベルも確認したくて読書継続です。

いまのAIは現時点では嘘、デタラメを平然と回答するレベルです。私の肌感覚ですと回答の4割は不正解の印象。一応Chat-GPT4oも試していますが精度が悪く別のものを多用。

移民史は時代、日時、数、移動など複数キーワードが100%合致しないと不正解。すると卒論や論考も大量に引っ掛かり昔の人が手間暇かけて調べた情報が数秒で回答される時代でもあることを身を持って学習中。つづく。

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