ペルーの日本人移民

ありがたい一冊
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久しぶりに移民読書に目覚めて新しく購入した「ペルーの日本人移民」。購入といっても300円の古本ですが解説の切り口がとても興味深い一冊でした。

ペルー移民に関して「イロハのイ」みたいなことを書きますが、一般的に初期移民は第1次(1899-1923年)と第2次(1924-1936年)の2つに分けられ、第1次は地獄のような話ばかりがクローズアップされ、第2次は地獄もあれば極楽もあった話へと変化しますが、この本は両方を分けへだてなく淡々と解説している点が新鮮。

著者はアメリア・モリモトさん。

アメリア・モリモト (Amelia Morimoto) | ディスカバー・ニッケイ

地獄や極楽の状況でもペルー移民が増え続けた時代があり、おそらく日系2世までは苦労を語らず世を去った人も多く、いまは5世、6世の時代ですから日系コミュニティが膨らむ過程について想像したこともなかったのですが、本書は第2次移民(1924-1936年)の日系人職業や地域も詳細にまとめられて一気に読み終えました。

 

残念なのは田中貞吉の蛸壺視野

過去のエントリーでも触れていますし、それ以外の情報もわりと簡単にネットで入手できますが、本書でもアウトラインが解説されていました。

日本人海外発展史厳書 - 明治海外ニッポン人
いやぁ...凄い本と出会ってしまった。かなりヤバい。介護が落ち着いて自分の体が元気だったら行きたい地域「南米」について知りたくていろいろな本を読み漁っており、パラグアイ、奥アマゾン、コロンビア、キューバ、アルゼンチン、笠戸丸、ぶらじる丸と制覇したのですが、それらのどの本よりも衝撃的...

いつもながら雑に復習しますと、おそらく田中が13歳の頃「岩倉使節団に同行してアメリカ留学できた1人」と言うと聞こえがよいですが、中身は吉川重吉の付き人同行としてボストンへ行けたはいいものの、滞在中に金銭ピンチ発生の折、人づてに「海軍省派遣留学生」の座をゲット。その頃18歳。

いまは大学も留学も18歳を過ぎてが一般的ですが田中は中学生1年生からやっていたと思えば稀有な人生です。その時の語学習得と人脈が晩年森岡移民で活躍する田中になります。

さて、田中は金欠で窮地のボストンからサンフランシスコへ移動し、その後体調を崩して日本へ帰国しますが、そのサンフランシスコで会った人物が以下の方。

1898年、ペルーに日本の移民会社、森岡商会の代理人田中貞吉がやってきた。…日本海軍の給費生としてサンフランシスコに滞在中に知り合ったアウグスト・B・レギーアに呼ばれた。レギーアは当時「ブリティッシュシュガーカンパニー」の支配人であった。

つまり20歳のころにサンフランシスコで出会った人と40歳ごろにペルーで再会したことがペルー移民の命運を左右する出来事となります。

(その時歴史が動いた?)

レギーアは後の第40代ペルー大統領。

Augusto B. Leguía - Wikipedia

とまぁ、このように本書では書かれていますが、その後のJICA資料などを見ますと、次のように書かれています。

田中が最終的にペルーを絞り込む契機となったのは、往路における一つの出会いに起因している。 『ジャパン・タイムズ』紙のインタビューで、田中は「南米に下る前、ニューヨークで出会い、日本人移民について相談したペルー商工会議所会頭にできるだけ早く〔ペルーに〕来訪して欲しいと電報で要請された。」と述べている(The Japan Times, February 10, 1898)。1897年前後のペルー商工会議所会頭は、マヌエル・カンダモ(Manuel Candamo Iriarte1895年臨時大統領、1896-1903商工会議所会頭、1903-04年大統領)であった。田中が仮にカンダモかあるいはそれに近い筋に米国で会ったとし、ブラジルかアルゼンチンで召喚の電信を受け取ったことになる。 同紙では、続けて「〔ペルー〕共和国大統領は、〔日本人移民を〕受け入れることに切実な関心を持っており、田中に対して多大な支援を行ったとある。実際、共和国に存在している53の農業団体 agricultural associations)の代表者が、田中の提案を審議するためリマに召集された」(The Japan Times, February 10, 1898)とあるようにペルー国内で日本人移民導入に向けての動きがあったことが分かる。この動きが、コスタ(海岸部)の砂糖生産と密接に結びついていたことはよく知られている。 –JICA 海外移住資料館 12 

いずれにしても田中はアメリカ、ブラジル、ペルーを反復横跳びしながらペルーのサトウキビ畑労働者不足解消に移民を送り込む話を土産として日本へ持ち帰り、残念ながら絵に描いた餅の通りに事態がすすみ、結果初期のペルー移民は死屍累々の大惨事。

(当時サトウキビ畑での仕事は最底辺のキツい仕事だったから)

これをいまの時代に置き換えると人手不足の建設業や介護職に移民がやってくる感じでしょうか。

一般的に「田中貞吉はよい人」として登場することが多く、確かにその側面もあると思いますが、私は田中のせいでペルー移民史が狂ったと思っています。つまり、この田中貞吉なる人物がもうすこし日本の国益や日本人の幸せを真剣に考えてサトウキビ畑以外の就労環境も準備していれば移民はもう少し穏やかに進められたのでは?と妄想します。

(ペルーの産業構造を知って事をすすめていたとしたら最低のクズです)

田中タイプの日本人って爆増してますよね?

英語をそれなりに使いこなし、ジェットセッターのごとき移動。たしかにコミュニケーションに長けているけど、冷静に見れば本人も周りも「語学が達者だからスゲー」みたいな勘違いパターン。国益を考える思考が欠落した人。そんなことを想像しながら読み進めました。

もちろん田中さんは政治家ではないのでそんなことを考える必要もないのですが、手前の経歴は教師や官僚ですから、もっと上手に立ち回れたと思うのは時代背景を見れば贅沢なんですかね。

 

余談 : 邦人海外発展史

話は横道にそれますが、先に触れた田中貞吉ストーリの詳細は国立国会図書館「邦人海外発展史(著者:入江寅次 出版/井田書店 出版日:昭和17)」で確認できます。

この本の上巻十四章に「秘露移民開始」、十五章「秘露第一回移民就働後の紛擾(ふんじょう)」、下巻五章「忍苦節十年、秘露の同胞」、第十三章「秘露契約移民廃止と轉向(てんこう)商業者の発展」、第十七章「秘露同胞の現勢と移民制限令」とペルー移民の出来事を時系列で確認できます。

森岡商会と田中貞吉がいかにしてペルー移民を送り込むことになったかの経緯、田中貞吉が亡きあとはどうなったのか、田中がサンフランシスコでヘッドハントした橘谷精態が興した橘谷商會が南米における商売の祖などなど。面白すぎて一気読み。

「橘谷商會ってなんだよ」と思って検索すると野田良治による「日本人移植上より見たる南米列國」なる論説PDFが引っ掛かり…パズルのピースがピタリと組み合わさる感覚がたまらない。

(これだから移民本はやめられない)

そして巻末には「邦人海外發展史年表(附錄)」とありまして、明治元年から明治40年に日本から出かけた全海外移民情報がサクッと俯瞰して掴めます。

この本は昭和17年の本ですから、日本の移民政策の真っ最中。当時の人がこの本を入手できたら移民を思い止まるほどリアルに書き残されています。どうやら1981年に復刻されたものが流通しているようですが、上下巻揃で2万円するのでデジタルで満足することにしました。

明治(維新)期における国際化も当時の世界トレンドをしっかり追いかけていたように見えます。国際化といえばなんとなくカッコいいイメージの昨今ですが、詰まるところ「だれと出逢うかで人生は大きく変わる」というお話ですね。

田中貞吉や森岡移民会社との出会いが地獄への誘いになった人もいるわけで、色々と考えさせられるのでした。

 

女性移民の意味

話を本書に戻し、この部分は「本書の中心テーマではない」と言いながら触れられていた興味深いポイント。内容はつぎの点。

家族の形成は、日本人移民とその子孫がこの国で「閉じた集団」として社会的経済的に発展するための決定要因の一つとなる…

世の男が壊れる相場は「博打、酒、女」ということで、第1次移民の日本男児も御多分にもれず女性問題には事欠かない環境だったようですが、第2次移民からは以前「野村与吉」のメモで触れたと同じ展開の「アンデスの花嫁」なる提灯映画が…。

世界遺産マチュピチュに村を創った日本人「野内与吉」物語
先日から「クスコの日系人」を気にしながら移民系読書にハッスルしておりますが、本日は「野内与吉」物語です。

ちなみに監督は羽仁進さん。最近テレビを見ないので知りませんが、少し前までは時折お見かけしたお方。そしてチラシの↓この人が左幸子さん。私も名前ぐらいしか知りませんが昭和30年前後の映画で名前をよく見ます。

(このご夫婦もなかなか大変なご様子で…)

敗戦後はながらく復員兵を食べさせられない国でしたが、それからずいぶん回復した昭和41年製作となると私が生まれる5年前。

まぁね、船での移民事業が終わるのが昭和48年だったことを思うと、この映画は需要があったことになりますよね。「写真花嫁」のお話だそうです。

写真見合いで単身アンデスに渡って結婚したタミ子は、財宝探しに没頭する夫を尻目に地道に農業に励む。左幸子が土にまみれて働く女性を熱演。

本書の女性移民の話に戻りますが、こんな一節があります。

日本人労働者のほとんどすべてが帰国したいとの意思を持っていたからであり、この希望は第二次世界大戦前まで強かった。すなわちペルー女性と結婚するなど、永続的な絆を結ぶことは問題にならなかったのである。…結婚は人種の観念と並んで社会生活において重要な役割を果たす。一人の人生は、家の生活より重要ではない。日本人は血統をまったく純粋に保とうとするので、ヨーロッパ諸国や南北アメリカではごくありふれている混血という自然に逆らうような罪を避けるのである。 

これを日系3世が本にして書き残してくれてるわけです。じつに面白いですよね。だって日本に生まれ育てば、それが普通です。そこには日本人しかいないから他の選択肢が限りなくゼロ。日本という国の存在自体が世界の中で閉じた空間です。

(いまは違うけどね)

この「閉じた集団」という表現ですが、確かに1世はそうだと思います。しかし2世以降は変化し、3世ともなればこれが書籍として文字に残せる。

私が思うに「閉じた集団」であることが逆に長きにわたって南米で日本人移民を定着づけた最大のポイントにも思えます。日本人は少なく見積もって2600年以上の伝統文化を理屈抜きにDNAで理解できることで、他国へ行っても時間はかかるけど郷に従い混ざり合うことができる特殊民族で、相対的に露骨な侵略史はないですよね。

確かに閉じているんだけど、ほぼすべての場合において日本人は移民先国の人々に危害、損害を与える事はなく、争いをできるだけ避けて穏便に、且つコツコツとジワジワと産業構造を捻じ曲げて変化させてしまう。別の言い方だと時間をかけて自分たちの(閉じた)スタイルへ持ち込む、引きずり込む、そんな印象があります。

もう少し突っ込んで書くと、日本人コミュニティの海外繁栄は必ず初期段階で切り込み隊に大損害が生じ、想像を絶する犠牲を伴い、それこそGo For Brokeな行動も選択し、その犠牲を現地での大義名分に掲げ、コミュニティで共有されると有り得ないスピードとパワーで急拡大するという特徴があるように思います。

とにかく仁義とか道理を見いだせなければ、自ら作って動くとでも申しましょうか…そりゃ強いですよね、命を賭してますから。時代は変われど行動はサムライです。

 

余談 : クスコ情報

本書でのクスコ情報はイリエ資料より抜粋された「1924年までの移民の県別分布図 クスコ26(名)」と、フクモト資料より抜粋された「1940年の県別の日本人移民の数 クスコ計19人(男17、女2)」の2か所のみ。それ以外の情報なし。

フクモト資料は1940年の国勢調査を基にしているようです。

1940年の国勢調査によると、日本人はこの国最大の外国人集団を形成していた。外国人総数62,680人のうち17,638人を占めていた。日本人の90%、すなわち15,593人がリマ県(カヤオを含む)に住み、主としてリマとカヤオの両地区とチャンカイ郡に集中していた。

考えてもみればペルーのリマからクスコへ向かうことは東京から鹿児島や北海道の端までの移動距離ですから簡単ではないですし、仮にモエンド港からでも東京から青森ぐらいの距離ですし、クスコを根城にした日系人というのはある意味異質です。

ペルーは大国なのですよ。分かりやすく比率を合わせるとこんな感じ。日本はすっぽり収まる。

こんなくだらないことをしながら「果てしなく遠いなぁ〜」と思っていたら、とある歌詞を思い出した。「君の行く道は 果てしなく遠い だのになぜ 歯をくいしばり 君は行くのか そんなにしてまで」。本当に遠い場所である。

 

頼母子という日本の共栄・共存文化

これも以前にふれましたが全国的には「無尽」で知られた互助システム。その様子がYouTubeにアップされていますが、今でもやっているとすれば「閉じた集団」恐るべし。

かなりやの唄 - ペルー日本人移民激動の一世紀の物語
本日はペルーの本。移民史というのは波瀾万丈という言葉がピッタリで、この本も内容が濃い。著者がご存命ならそろそろ90歳。私の両親より約10歳上というだけでこんなにも壮絶な人生なんですね。

頼母子ってね、ぶっちゃけ日本人でしか成立しないと思いますが、皆様どう思われます?

完全に性善説であり、集めたお金をポッポナイナイしてトンズラするなんてことは微塵も想定していないシステムですよね。同じ事を外国人がしたら「第1回の集まりが最初で最後だよな」とか言い過ぎかな?それぐらい日本人は根っからのお花畑星人ですよね。

うまく表現できませんが「信頼と裏切りが並走する民族」という感じ。裏切りというネガティブな事象もあるんだけど、壊れても壊れても再び1から信頼を築くとでも申しましょうか。

この映像も非常に感慨深いものがあります。貴重です。

生きてゆくにはお金が大事なんだけど、それよりも大事なものを理解すれば、お金は工面できるということです。いまの日本人が忘れているのではなく理解できないまでに駆逐され、お金に支配されております。

いまも頼母子が続いてる動画がもっともっと共有できれば、それは日本に住む日本人にとって強烈なインパクトだと思います。独身の私が書くには説得力ゼロですが、これだけ独身が爆増した理由や背景、女性の活躍といいながら止まらない貧困児童、こども食堂、不登校児童、こどもの自殺など挙げればきりがない。

今の日本は「閉じた集団」ではなく「閉じた個人」が窒息状態。

2020年1月17日放送 新日本風土記「大阪ベイブルース」

かつては「一人の人生は、家の生活より重要ではない」だったわけですが、今は経済戦争や移民による伝統破壊で家系が簡単に消える時代です。

本書終盤には「閉じた集団」の中のさらに小さな「内地集団」と「沖縄集団」があり、それが本国同様に壁を作って共存している様子にも触れられていました。確かに「ペルー移民七十五周年記念誌 沖縄県人会」なんて書籍タイトルを見るに、それなりの壁があるんでしょうね。

それはまた別の機会に書くとします。

南米の大地に生きて「移民根性」
先日からふたたび南米移民に関する読書に没頭していますが、以前から「ボリビア、アルゼンチン、パラグアイ、ドミニカ...

さてさて、本書の後書きには参照資料がズラリと書かれており、これを見る限り日本語では知られていない1次資料に近い移民情報がペルーに在ることがよく分かります。残念ながら私は読むことが出来ませんが、そのタイトル、著者、発行元だけでもリストアップされてネットで確認できればいれば未来へつなぐことが容易でょうね。

ということで「ペルーの日本人移民」おすすめの一冊です。

(移民本は読了の疲労感が半端ない…)

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