ボリビア開拓記外伝 疫病・災害・差別を生き抜いた人々

ありがたい一冊
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本日は「ボリビア開拓記外伝」をご紹介。以前にメモした「移民根性」という本と同時購入したものです。これは古本でも実売価格が高いのですが、たまたまお得な値段に感じたので衝動買い。

もうね、ペルーを読むとボリビアにつながり、ボリビアを読むとブラジルへつながり、きりがないのですが「(日本)人に歴史あり」ということです。

この手の本を読むほど戦前の日本人は勇気があった人種(過去形)に感じますね。

私のようなヘタレ人生からは想像できないほどのスケール感に圧倒されます。もちろんイタリア人やドイツ人も方々へ移住しておりますが、日本人もアメリカ大陸の北はバンクーバーから南はサンティアゴ辺りまで西海岸にくまなく出没してるんですよね。

末裔が残っていても混血となれば顔を見て日本人と分からない時代であることが寂しい限りですが、DNAに血が混ざっていることで内面的特徴はないものか?とか、どーでもいいことを想像しながら読書。この本は学校の教科書のような文字の大きさでとても読みやすいです。

ひさしぶりに社会科教科書の副読本を読んでる気分でした。

タキラリでも聴きながら

著者は戦後沖縄初期移民のお金と心の負債を解消する役目で活躍された渡邊英樹さん。以前にもチラリと触れた新垣庸英とも時間を共有されている方です。本書には新垣さんのご苦労も書かれています。

「沖縄県系移民音声資料」
4月初旬にペルーのクスコ移住者情報探しから色々な本を読み返したり、新たに買ったり。でね、移民系の調べ物をしていますと...

私も30年ぶりに思い出した単語「タキラリ」。

日本では知名度の低い音楽ジャンルですがよくいえばボリビア周辺国音楽の良いとこどり。筆者によると…

「樹から美女が降る」といわれるくらいラテン系の美しい女性が多かった。夜になると近所の若い娘のいる家の前からは、ギターの調べに乗って恋を語りかけるセレナーデが聞こえてなるほどラテン系の町だと思わせた。休みの前の夜は、どこからともなくパーティーでのタキラリというアンデス高地のフォルクローレとは趣を異にするサンバに近い陽気なリズムのサンタクルス独特の音楽が流れてきて、それが空が白んでくるまで続いた。

ここだけ読むと「ボリビアに行きたい」と思いません?

ということで、知れば聴いてみたくなるタキラリ。でしょ?

はい、どーぞ。

なかなかの圧をかもし出すこの女性はグラディス・モレノ・クエジャーさん。サンタクルス出身のボリビアを代表した歌手。筆者もこの方の代表曲を思いだして書かれたんじゃないか?というのが「Viva Santa Cruz」。歌詞の中身は「サンタクルスに訪れる情熱的な夜、星は愛を語り、あなたは恋に落ちる」みたいなこと。

ボリビア開拓移民の悲惨さと相入れないラテンの雰囲気に別の意味で哀愁を感じます。個人的にはテンポが速いハワイアンの優しさのようでもあり、カンツォーネから毒気を抜いたような気も。

でも、たぶん日本人が知ってるボリビアの曲はこっちですよね。

 

「土人」の女の子をもらって育てる風習

冒頭からパンチの効いたキーワードが登場。「土人」という言葉を人生でほとんど使ったことがない私の世代に侮蔑感はほとんど無いけれど、どことなく避けたい単語。

これも言葉の歴史だから仕方ない。

日本人移住100周年誌「ボリビアに生きる」によると「その頃リベラルタでは、多少のゆとりがある者が貧乏人の「土人」の女の子をもらって育てる風習があった。15〜16歳の少女が駄菓子を売って歩くのが一般的で、持って出た菓子を全部売り尽くさないと家に戻れなかった。(中略)そのような場合、菓子を全部買いとって少女を1日の仕事から解放してやると、洗濯、食事の準備もしてくれたという。その上、自分の身体も提供してくれた。それは日本人男性にとって、ジャングルの生活をかなぐり捨てるほどの居心地の良さであった。

別の本で似たくだりの文章を見たことがあるが、なかなかのインパクト。ですよね?

1940年頃であれば現代風パッケージのお菓子も流通していたと思いますが、さらに古い時期となれば、いわゆるポン菓子のようなものを小さなナイロン袋に小分けして売り歩いてたかと妄想していました。

15-16歳となれば体つきは大人でしょうから…。

 

日系移民として友好関係を築こうとする姿

これぞ日本人というべき団体行動。日本人なら当たり前ですが、たかが「並んで歩くだけ」のことが外国人はできません。日本人が小学校の時からやっている整列というのはいわば軍事訓練の名残りです。

サンタクルス市日本人会も、各移住地と合同で独立記念日には「日本人移住者はサンタクルスの市民と共に」の横断幕を掲げ行進し、友好の促進に懸命に努めなければならなかった。

どこの国へ行っても「私はみなさんと仲良くしたいとアピールするのが当たり前」と考えられるのが日本人でして、これは決して当たり前にできる行動ではないのですが、郷に入っては郷に従え。

67ページの写真にこんな解説。「日本人会合同での独立記念日の行進。前列左から2人目が筆者。右から3人目が伊集朝規初代琉球ボリビア事務所所長(1972年)」

以前にメモした「移民根性」の著者伊集朝規さんの姿を発見。手に持つプラカードが一番はっきりと分かる黒いグラサンのお方。中央の方も誰だか気になる。

こうしてみると著者の渡邊さんといい、伊集さんといい、外国で何かをやらかすオーラは出てますよね。胸を張って堂々たる姿。

伊集さんをはじめ皆さんが手にするプラカードが何かと思えばサンタクルス県の紋章で元はスペイン国王フィリップ4世の置き土産だそうです。スペイン王国の威厳を示す王冠の下に楯のかたちの中が4分割されており、それぞれの意味は…

Escudo del Departamento de Santa Cruz

  • 中央十字はキリスト教
  • 右上の2つの十字架はサンタクルスとサンロレンツォの2つの姉妹都市の意
  • 三本のヤシは牧草地の豊かさ
  • 穴の空いた茎を持つトロボチの木はおもてなしの意
  • ライオンは貴族、勇気、威厳の象徴
  • 尖塔は壮麗さと守り

なんだそうですが、本当にそんなこと理解し、意識して行進したのだろうか?

戦後沖縄からの入植となれば、一般住民が約10万人(県民4人に1人)亡くなった場所であり、おそらく移住者の親戚も亡くなっているはずで、自分も命からがら助かったとはいえ地球の裏側のジャングルに放り出され、行進参加なんて二の次、三の次どころから考えも及ばないというのが正直なところだと思うと、本書の渡邊さんや伊集さんの働きというのは…。

一見すると日本から出しゃばってきた内地の人間を先頭に町をねり歩く様子ですが「人間は誰かのために生きている」ということを考えさせられた写真です。べつに出しゃばってる訳ではなく、そうすることで波風を鎮める役目も担われていたんでしょうね。先頭は常に向かい風です。

 

米国政府に頼った時代

こればかりは私世代で理解不能な感覚。すごいことがサラッと書いてあります。

稲嶺一郎琉球海外協力会長は入植地の状態を見てボリビアからの帰途に急遽、単身ワシントンに飛び、米国政府に82万ドルの沖縄移民援助資金を要請した。(中略)…資金は第1コロニア・第2コロニア間の幹線道路の造成と病院建設に使われることになった。

沖縄が植民地下であることがよく分かる一文。しかも同時期の移住地には原住民の土地が含まれるややこしい問題も発生中。

そんな難しい話は横に置き、YouTubeにこの移住地の動画がたくさんあるでしょ?

第1コロニア・第2コロニア間の幹線道路なんて山ほど動画に映り込んでいます。その道路のお金の出所がアメリカというお話です。そういう視点で動画を見ると本当に苦労が偲ばれます。

オキナワ移住地 - Wikipedia

ボリビア移民事業は良くも悪くもアセアン地域に強かった稲嶺一郎氏の判断によるところが大きいと思いますが、さりとて敗戦下の沖縄もひどい状態でしたから悠長な検討時間もなく、沖縄県民の苦労というのはガチですね。

(よくも悪くも即断即決が多かったと想像します)

敗戦後は内地の学校も青空教室でしたから沖縄だって同様ですが、その子たちが読む教科書を作るお金も、機械も、紙も、人もない時代ですから、本当にご苦労されたことと思います。

私も何人か沖縄に知り合いがいますが、こんな会話を交わしたことがありません。もうこの歳になると生涯で会う機会もないように思いますが、考えても見れば奇跡的に対戦を生き延びた末裔ですから、機会があれば「酒でも飲みながら親世代の苦労話を聞きたいなぁ」なんて思いました。

すこしだけ沖縄県人の苦労や痛みが理解できたような気がします。下の写真は表紙にも使われているサンファンですが、これが当初の道路です。道路というかマディな轍(わだち)…。

道と言われればそうかもしれないけど、これを本当の道路にしたわけです。

これが噂の「犬も通わぬサンファン」

サソリ、マラリア蚊、カスカベル(ガラガラ蛇)、毒グモタランチュラ、川エイ、ヒアリ、ハエ、ノミ、シラミ、腸チフス、赤痢、A型肝炎…ことほどさように、さまざまな病虫害があったので近年まで、ボリビア人でさえ足を踏み入れようとしなかったのがサンタクルスの未開の土地であった。そこに日本人が入ったのである。

 

ボリビアを去っていった人々

こればかりは全体が見渡せた人しか書けません。

「9割の人々が当初の夢破れ、移住地を去らなければならなかった」とあります。

コロニアオキナワ50周年記念誌の計画移住者名簿から、その転往して行った2330人の行き先をザッと自分で数えてみた。2〜3人の誤差があることは許してもらうとして①ブラジル983人②日本784人③アルゼンチン381人④サンタクルス市を含むボリビア国内115人⑤ペルー43人⑥米国22人⑦チリとカナダ数人…

世に言う「成功者は1割」という話。

ボリビアの話から外れますが、この「1割」という数字はなにをやってもこうなると言われています。おそらくその原因は学び方(教育)じゃないかと思います。義務(教育)ではない学び方を子どもの時に掴めれば、大学も今ほどの数は要らないでしょうね。

(たぶん現代の義務教育はやっていることがおかしい)

ジャングル開拓最前線でこんなくだりがあります。

先発隊として選ばれた人々は、体力と智力を兼ね備え、見識に秀でた人たちばかりであった。しかし、言語・風習・習慣の異なる社会への適応力、予期せぬ困難に立ち向かう勇気と忍耐力、異郷の中で襲ってくる望郷の念を払拭いする克己心等々海外移住に必要な要素を備えていた人々にとってさえ、ボリビアの現実は厳しかった。

これを読みながら「あぁ、私も9割だな」と思いましたね。これらすべてを兼ね備えていても脱落者がいたということは、その風土も地獄でしょうね。

私の印象としては、地獄の1丁目がドミニカ棄民、2丁目がペルー初陣。それ以外も中米で闇に葬られた被害はたくさんあるでしょうが、ボリビアは地獄の3丁目あたりか…。

 

余談 : 借金してまで来日する価値のない日本への出稼ぎ労働
日本から南米への移民移住の本ばかり読みまくっておりますが、総じて日本人は真面目であり行く先々の国々で多少の迷惑行為はあったとしても大きな犯罪問題を目にしません。特に初期移民は黙って死んでいった人も多いだろうと思います。もはや民族性といっていいと思います。
そのせいで現在の技能実習制度の闇が出来あがるプロセスも容易に想像できます。
「許可監理団体」なる中間業者は日本全国で3,000社以上が登録され年間失踪者が1万人を超え、今後予想されることは…海外へ移民した日本人のその後を見ればわかる通り。
  • 本国で知らされていた就労実態と違う
  • 実際の就労環境も劣悪
  • 低賃金でこき使われる
  • 払われても契約と異なり更なる低賃金ケースも
  • 当然辛く孤独となれば群れて行動する
  • 人里離れた場所へ逃げ込む
  • 体を壊す
  • 野たれ死ぬ
  • 有力者も現れる
  • 日本人との結婚、事実婚が増える
  • (無国籍)子孫が増える
  • 2世、3世と続く

かつての日本人移民も古い資料には「逃亡移民」と書いてあります。

そして、はじめは「移民」と読んでいたものを、あるタイミングから「移住」と変えて煙に巻く手法は日本人の伝統文化レベルの腐れっぷり。

(酷いものです。ほんとうに…)

日本人でもつらい状況になればなりふり構わず逃げ、逃亡先で隠れて働き、そこでロマンスもあれば討ち死にも。ペルーでも強烈な排日運動がありました。いま同じことが日本で起こりつつありますが、本当に来日の方々は悪者なのか?

The Nippu Jiji 1940.05.16

かつての日本人移民と同じことがこれから日本国内で起こると考えるべきです。でしょ?人間のスペックなんて似たり寄ったりですから。絶対的に違うポイントは日本が島国であること。陸続きではないので島流し状態。船での出国は外洋の波が高く現実的ではありません。飛行機だと身バレする。つまり逃げられません。

このまま放置しておくと国内の田舎のどこかで滞留し、そこに失踪者が集まることは間違いありません。そうして日本人も海外移民先で生き延びたわけです。

コロナ禍前は80-100万だった「渡航費、本国での学費、日本での学費、手数料」などは円安も追い討ちをかけコロナ後は120-140万だそうです。この借金返済に苦労しているから失踪が起こるわけですが、まもなく日本人賃金と技能実習生賃金が逆転することは想像容易。

今のまま自国の問題、家族の問題、自分の問題を外部化処理することを正当化し続けるといずれ日本国は消えると思います。お金がある人ほど、稼げる人ほど外部化します。外部化を正当化する家庭で育つ子もまた子育てを外部化し親の介護を外部化することになります。

(もちろん、大学の外国人優遇学費免除などは論外)

リベラルがそれというのは理解できますがネオコンサバティブもリベラル。そしてコンサバティブも行動がリベラル。つまり1億総リベラルですから国がおかしくなるわけです。その状況でやってくる特定技能実習制度の人たち。

日本人の民度、為替、給与、環境などがよいと思って来日してみたら、すべてぶっ壊れて仕事が奴隷状態という…色々と考えさせられます。

〜◆〜◆〜

ということで、最後はずいぶん話がそれましたが、この本は地味に疲れました。

それは多用されている写真に1971年が多いこと。わたしが生まれた年です。内地は戦後復興済みで世界経済制覇を目論む最中ですが、海外移住地はどこもかしこも戦場さながら。土地はジャングル開墾地なのでどの写真を見ても「スゲーな」しか言葉が思いつかないその年が1971年というのが地味に衝撃。

著者の渡邊さんは債権集金係とはいっても特別なテクニックはなく一軒一軒家庭の事情を把握しながらコツコツと回収しただけ。これも人生の晩年だから本にできますが、もっと若い時に書籍化するとお金の話は角が立ちますよね。仮にそうではなかったとしても、信頼を得ていなければ本にできませんよね。今では笑い話でしょうが当時は大変だったと思います。

本書は日系人農協であるCAICO組合の操綿機械導入経緯が詳しく書かれていますがネタバレすると面白くないのであえて触れませんがデューク東郷のようなお話も。敗戦国の人々が戦勝国ルールで生きることの難しさもひしひしと感じました。

007なお話も

以前に読んだ「移民根性」しかり、なんとか移民を心身ともに安定させ、かつ資本主義経済に乗せようと試みる苦悩が手にとるように分かります。それもかつては人海戦術で可能でしたがいまはネット時代ですから可視化が難しいでしょうね。

一連の本を読み漁って理解したことは、沖縄県人の歴史はかくも複雑でひとくくり出来ないものだと知りました。最も難しかったのがアメリカ占領下での立ち回り。たしかに「なんくるないさ」と思っていないとやってられないでしょうね。

平和の重要性も思い知らされます。

この本は生きることに疲れた人におすすめです。

屋根もない、水もない、食べ物もない、仕事もない、お金もない、帰る場所もない、相談できる人もいない、言葉も通じない、それでも地を這うような努力で諦めなかった人のお陰でコロニアオキナワがあり、ボリビアを諦めて別の新しい道を歩んだ人も。

これだけの障害をクリアした歴史を知ると、沖縄県人でない私も「人生どーにかなる」という言葉が口をついて出てきました。ほんと、人生なんとかなるもんです。

そしてまた1人気になる方が増えました。「いぶし銀の(宮城)徳昌さん」。

以上「ボリビア開拓記外伝」でした。

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