なんとも珍しい本を入手。表紙はインパクトの強いフル○ンの子がふたり。もちろん目的は日系移民に関する情報を欲してですが、大当たりの1冊。
二見書房によるものですがwikiによると…
という本らしいです。
昭和35年11月12日の本ですから、敗戦から15年、GHQ撤退から約8年後にバカ売れしたそうです。月給が2万とか3万だったころに250円の本書が売れた理由を知りたいでしょ?
サクッと目次を紹介しますと…
- 地震の国チリー
- 太陽の国インカ
- ペルーの日本人
- ボリビヤの日本移民
- パラグァイの新移住地
- タンゴの国アルゼンチン
- ブラジルの日本人
- カリブ海の緊張とメキシコ
といった具合。私が生まれる10年前の1960年ごろ、日本社会は海外へ出かけた日本移民と移住地を気にする時代であったことは間違いないですね。それにしても、こんなにも私好みな目次の数々にちょっと驚きました。おあつらえ向き。
このルートを見ますと「NHK特別報道班」なんて仰々しいタイトルにしたくなるのも分かる気がしますね。本書には「まずヴァンクーバーへ飛び…南下のコースをとって飛び発った」とあります。
バンクーバーへの直行便就航は1967年3月のカナディアン航空からだそうで、この取材時の1960年代前半はアンカレッジ経由が濃厚でしょうね。パンナムかノースか…。
NHK特別報道班とはなんぞ?
まったく詳細を知らずに読みすすめ、あとがきで詳細を把握。それによると本書は番組連動企画本だそうです。こんなことが書いてあります。
テレビ用のフィルム三万フィート、ラジオテープ百五十本を訪問先の各国へあて発送を完了したのが出発の前日であたから相当にあわただしい出発であった。
私たちが現地でしたものは七月から九月までの三ヵ月間、テレビは毎週火曜日の午後九時半から三十分間、ラジオは「中南米便り」その他を併せて十本紹介することになっていた。
この報告はラジオ、テレビの放送原稿を中心に追加補正のうえ、書き下ろしたものである。
なるほど。
当時の番組情報を探すと確かに見つけることができました。当時の番組表を見ると視聴者が楽しみにしていたであろうことが想像できます。
いまではフィルムもテープも不要。なんなら特別報道班すら不要。
いつでもどこでもだれでもGPSでライブ中継の時代。仕事が消えていることもよく分かります。
文末はこんな締めくくりです。
なんとまぁ。先日読んだ2冊の本の著者と連動していたようです。竹田さんが武田という誤字はご愛嬌。この時代は名称ルール緩かったことが逆に私の心を和ませてくれます。
リマからクスコへ飛ぶ
チリの首都サンチャゴの解説からスタートする本書ですが、チリの日系人については書かれていません。一般的に南米西海岸に出没した日本人移民の最南端がサンチャゴ辺りと知られていますが、おそらく日系人の数が少なく取材断念でしょうかね。
そしてクスコへと話が移り、例のお二人のお名前が登場しますが、今回はちょっと違うパターン。
いつもは河村道香さんと大村昌次さんのツートップですが、今回は「河村侃さん」と大村昌次さん。おそらく「侃」の読みは一般的には「カン」ですよね?「侃々諤々(かんかんがくがく)」の侃。ペルー現地情報によりますと「「あきら」「すなお」の2通りの文献あり」だそうです。
一般的には「あきら」と呼びそうですが、そもそ「侃」という漢字自体が珍しく感じるあたり「すなおじゃね?」と思ってみたり。
少し年配の方の話を聞きますと「侃」は昭和のはじめごろに名前として使われていたらしく「あきら、すなお、ただし、つよし」辺りの読みが多いそうです。実際に何と呼ばれていたのか気になりますね。
そんなことを気にしながら読み進めましたが面白いことが書いてありますよ。
河村さんは山口県の出身だということであった。十七歳のときに、郷里を出てこの国へとわたってきたが、人並みの生活をするまでにはながい苦労がつづいた。その生活も、第二次大戦で破壊され、身をもって、山奥へ逃げこみ、砂金をとりはじめた。
しかし、それも思うような成果をおさめることもできず、失敗に失敗を重ねた末に、ようやく一つの鉱脈を発見することができた。そのおかげで何十年と続いた苦闘生活も、ようやく報いられ、現在は雑貨商の店主として、クスコの町では押しも押されもしない成功者の一人になることができたということである。
いまでも、かつて発見した砂金の権利を持っていて、そのほうの収入もかなりのもののようであった。
ボリビアの吉田正義(ホリフエ・ヨシダ)
吉田正義さんはずいぶん有名な方ですが、意外にもネット検索でパッと情報が出てこない人。もちろん私が知らなかっただけで、知ってる人は知ってる超有名人。
ここで完全に読書沼にハマってしまいました。
吉田義憲さんは静岡県賀茂郡仁科村のご出身で厳島丸で自由移民としてご到着。以前にもメモした「いつつくか丸」でカヤオに到着。
入った場所はペルーですが落ち着いた場所はボリビア。さて、義憲さんがどんなルートでボリビアへたどり着いたのか?気になります。
続く文章には…
なななんと!お札にサイン!当然気になるでしょ?
ところが吉田正義を検索しても情報は一切ヒットせず。これだけネットに情報が溢れ便利と言われてるにもかかわらず、こんな歴史の一端が検索して出てこないなんてありえないでしょ?
(私はゴミに埋もれた生活をしているに違いない)
後日べつの本で吉田さんについて書かれた本を発見するのですが、結論から言うと検索しても見つからなかった理由は名前が違っていたから。「NHK特別報道班」という仰々しい副題にもかかわらずウソの名前だったのでした。それはまた改めて。
話を戻し、ボリビア中央銀行のHPを見ると歴代総裁の顔写真も手描き!いかに日本が絶賛衰退途上国といっても対外資産は相変わらず世界一で、ボリビア経済とは雲泥の差。仕方ないのでAIに頼るとこちらもこころもとない回答。
(久しぶりに力技で…)
1960年頃の「10,000ボリビアーノ紙幣」で探し始めたのですが、その手のサイトを見ていると1945年から発行で9種類見つかり、日本銀行券同様に発行番号を追うと「P# 151 – series P-V、Y-E1 にサインがある」という記述を見つけました。
統制局長という役職名の意味する単語が判明すれば解決も早いと思うのですが…どなたかご存知でしたら教えてください。
いずれにせよ二世の「Yoshida」と書かれた紙幣が流通していた事実は驚きです。一世の義憲さんが日本を飛び出したのはこの動画の頃ですよ。本書がベストセラーになって当然です。
パラグァイの新移住地
先のペルーやボリビアと比べて情報鮮度の勢いが一気に落ちた感のあるパラグアイ。それもそのはずで、人名が出てこない。急にオブラートに包んだ情報へと変化。
こんな風な地域紹介に終始するあたり、その移住が平坦ではないことは推して知るべし。
そしてこのラパス地区というのが大変な移住地であったとこも有名な話。
パラグアイの紹介文章では「問題の広島県」について一切触れていないにもかかわらず、日本人の誰もが知っているような体で話は進みます。
おそらくこの当時、いわゆる「町ぐるみ移住」が現地で大変なことになっていることは日本に漏れ伝わり、社会問題として捉えていたのではないかと推察します。
そして、約6ページにわたって移住者の愚痴を紹介した後に…
ということで悪条件がつらつらと紹介されています。
この話もずいぶん前に調べたことがありました。当時は敗戦復興で食料が足りない、仕事が足りない、家の造りも貧しい時代に海外から続々と復員兵が戻ってくる。さあ「どーすっぺ?」となった時に思いついた移民です。
以前に1956年10月21日号のアサヒグラフに紹介されていることを知り取り寄せたのがコチラ。
地方の片田舎が全国雑誌にデカデカと取り上げられただけで、それがいかに大きなニュースであったかが分かるというもの。
タンゴの国アルゼンチン
ここにも面白い説明があります。
この本はNHKの取材本ですが、取材時が移民時でもあり、時代を感じます。
アルゼンチン紹介のはずがパラグアイの話と行ったり来たり。
1960年頃というのはすでに戦後復興も一段落し、日本人がモーレツに働き始めるころ。その当時のリアルな様子もユーチューブで確認できる通りです。
すごくないですか?このギャップ。この当時地球の裏側へ出かけて大木を切り倒して道を作っていた日本人と同じ時代です。
その時代背景で移民というキーワードやNHKの番組構成を見ると、番組も本書もひとつのプロパガンダとして機能していた気がしますね。
この移民団のなかに、パラグァイのフラム移住地に花嫁としてさんとして入植する坂本なほみ(二十五歳)さんがまじっていたので、私たちは、早速マイクを向けた。
坂本さんは、昨年、フラム移住地の山脇団長(大正町町ぐるみ移民)が、日本へ帰国したとき、NHKのラジオを通じて、移住地では花嫁さんがいなくて困っている、ということをうったえた。坂本さんはその放送を聞いて、花嫁を志願したとのことであった。
「現地では坂本さんのくるのを花嫁第一号だとみんなで待っていましたよ」と私たちが伝えると、彼女は目を輝かして俯向いてしまった。
坂本さんは、もと正田家(美智子妃殿下の実家)の女中さんをしていた人で、その後、オーストラリヤ大使館のメイドなどもしていたのだそうだ。
ブラジルのニセ宮様事件
これも有名な話ですが過去のエントリー記憶がないので触れてみます。日本でもまだ記憶に新しいのが「有栖川宮詐欺事件」。それのブラジル版「朝香宮詐欺事件」。
当時の日伯毎日新聞には連日このニュースでもちきりの時期があったそうです。
この当時、この加藤拓治という人物が「あるすし屋によく行く」という情報をつかんだNHK特別報道班は「私たちは毎日そのすし屋へかよった」そうです。
(その寿司代は経費か?)
そして「ホテル・サンパウロ」にアジトを突き止め、なんと本人に取材したことが書かれてあり、思わずニヤニヤしながら読み進めました。
なんだかゴシップ週刊誌のような展開ですが…
「加藤さんでは?」と私たちは話しかけた。
「ちがう、三菱の加藤さんと、よく間違えられて困るんだが…」
「しかし、あなたは加藤拓治さんでしょう」と氏名をはっきりいうと、「そうだ」とうなずき、私たちを自室へ案内してくれた。
豪華なホテルの一室にはPL教団の祭壇があって、彼は、和装姿の妻をふりかえり、私たちに向かって「日本からやってきて、私に会えるなんて、これもPLさまのおかげじゃ。歓びなさい」とおごそかにいった。
ヤバい話ですよね。この後「ニセ宮様はタキシードに着替えて着座すると私たちの質問に答えてくれた」そうな。これがその現場写真。
(奥の侍従のカメラ目線が気になる…)
サギ罪で起訴されているそうですが、というと、「なあに、あれは反対の反対じゃ」と訳の分からない御宣託のような返事であった。将来の抱負は?というと、「政友会を起こして、国粋主義政権をつくり、アメリカと本格的に勝負するつもりじゃ」とのお答えである。
本籍地は宮城県の松島の近くとのこと、大正二年生まれ、当時県議会議員をしていた父から前後八回も勘当されたこと、十九年前にブラジルへわたったことなどを快く話してくれた。
しかし、会見の結論として私たちの印象にのこったことは、彼は少し頭がおかしいのではないか、ということであった。論旨不徹底、無意味な言葉の羅列というほかなかった。会見が終わると、彼は侍従に向かって、「お送りしなさい」とおごそかに命じた。
私たちは見送ってくれた侍従に、「ほんとうに宮様と思っているのか」と尋ねてみた。すると、「いや、思っていないが、ついていれば生活に困らない」と薄笑いをうかべた。ニセ宮様はこれまでに貯めこんだ金で一生楽にくらせる、とのことだった。
平和な話ですよね。移民話が吹き飛ぶインパクトでしょ?こんな都市伝説みたいな話がNHKの冠で書籍となって販売されていたからベストセラーになるわけです。
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1960年代の日本は経済成長期と言われますが移民史や沖縄史から日本を眺めると名もなき庶民の苦労が偲ばれます。この年の日本の総人口は約9,430万人。それだけの人数を食わす仕事がなかったと見ることもできますが、戦前の人口が7,000万人のころでも日本は経済大国の1つでしたから、やりようによっては移民なんて推進せずとも事を収められたような気もします。
しかし敗戦処理からの経済復興はすさまじく、当時は国民が「死に物狂いで働けば豊かになれる」社会の仕組みを持っていた日本ですが、1990年から10年かけて労働環境と資産形成が株主資本主義に変わったしまったことで中間層が大破して以降は人口も減る一方。
こんな日本の体たらくをあの世から見ながら「わたしゃほんなこつ海外に移民として行ってよかったと思うたい」と言ってるんじゃないですかね。以上「NHK特別報道班 中南米を行く」でした。
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