「母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記」という本

ありがたい一冊
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ゴールデンウィークも後半戦ですがみなさまいかがお過ごしでしょうか。私は今年のゴールデンウィークも引きこもり生活と相成りました。

久しぶりの読書に選んだ本は「50代独身男の介護奮闘記」です。

さて、引きこもりの理由は両親がお世話になる福祉施設も休みのため全力対応が必要ゆえ。買物、入浴、料理と日々ハッスルでございます。最も体力を消耗するのが入浴で、施設と違い「できるだけ隅々まで洗ってやらねば」という思いにより全工程2時間弱。

(ヘロヘロになっちゃう)

ということで久しぶりにこっち系の読書。

元は日経ビジネスの連載記事です。

2017年3月、「『事実を認めない』から始まった私の介護敗戦」から連載を開始した、松浦晋也さんの「介護生活敗戦記」は、科学ジャーナリストとしての自らを見る冷徹な視点から、介護を通した母親との壮絶な体験を、ペーソスあふれる文章で描き、絶大な支持をいただきました。コメント欄に胸を打つ投稿が相次いだのも記憶に残るところです。

これが2017年8月に書籍化され、あれから5年が経過し連載の続編が始まっています。

母さん、ごめん 2
2017年3月、「『事実を認めない』から始まった私の介護敗戦」から連載を開始した、松浦晋也さんの「介護生活敗戦記」は、科学ジャーナリストとしての自らを見る冷徹な視点から、介護を通した母親との壮絶な体験...

中身はタイトル通りですが介護の病名は「認知症」。

 

ちなみにあと3年(2025年)したら日本の「高齢者5人に1人が認知症」となります。

若い方は「5人に1人」と言われてもピンとこないと思います。たぶん認知症と聞くとボケてなにもできない状態をイメージされると思いますが、実際そんなことはなく「まだら認知」なんて状態もあります。

別の言い方だと「普通に外を歩き、普通にスーパーで買物してる人だけど認知症を患っている人」です。そんな人だらけの社会へ向かっているというぐらい日常的なことになります。

 

この本を私の介護生活に置き換えると「40代独身男の介護奮闘記」となりますが、世間はさらに低年齢のヤングケアラー問題に直面しております。

つまり2017年発売時点で「50代独身」タイトルに釣られてうなずいた中身も5年後には「40代独身」に置き換わっており、まもなく団塊世代とその子世代による壮絶な介護が幕開けです。

 

さて、読んだ感想ですが「確かにアルアル」なんですが、内容の大部分を既に経験しておりますので参考になることは殆どありませんで、まさしく「いま自分の親が認知症になりはじめている」状況と客観的に理解しています。

まだ手をあげたことはないですが、その気持ちはよくわかります。

自分が統合失調症のような精神状態へと病むプロセスもよく理解できます。

つまり私も危ない道を歩んでおりますが、なんで持ちこたえているかといえばそれなりに仕事が回っているからですが、これが回らなくなったら破綻に向かいます。しかし親の介護が優先すると自分のセーフティーネットが後回しになるので社会問題としてはミッシングワーカーになるわけですが、なぜそんなことが起こるのかを逆説的に表現すれば「家族としてぬくもりのある対応をすればするほど社会から離れる」ということです。

 

てなことで「つまらん本だなぁ」と思っていたら、唯一激しくうなずいたのが「後書きにかえて」です。巻末のたった8ページが最も濃い内容に感じました。要約ポイントは2つ。

  1. 介護の効率化(集約)とぬくもりの両立
  2. 介護は家庭が行うものを続けるとGDPは落ち、家庭は貧困化する

激しく同意な内容ですが2022年現在で両方とも全く準備されていないと言い切れます。

 

余談ですが独身の罠がここに潜んでおり、残すものがない身ゆえに自分の人生を犠牲にした介護が成り立つんですよね。結婚して家族を持てばそれぞれの人生が間違いなく思考に存在するのですが、独身はそこからして思考にないので介護にもスッと入れちゃうんですね。

 

2022年現在50歳の平凡なオッサンの私が介護で感じることをぶちまけますと、この問題を国も家族もソサエティの外側へ追いやってきたから今のような社会になってるわけです。

「50代独身男の介護」なんてまだマシで、同じ社会構造でヤングケアラーを語るから下のようなコピーが生まれます。こういう視点でしか見られないほど問題にフタをし続ける国。

「40代としての時間を手放しているとしたら?」「30代としての時間を手放しているとしたら?」という問いだって誰にでも当てはまるのに当事者意識が低い理由は良くも悪くも行き詰まったら福祉施設や病院に丸投げするから。

その丸投げ先である福祉施設や病院がソサエティ内であるように見えて、じつのところ外側だから「ヤングケアラー 支援」みたいな検索ワードが出てくるわけです。

 

(常に人命より経済(お金)が最優先)

 

しかしここに来て人材も施設もリソース不足、要介護認定も年々厳しくなり、誰もがすぐには施設に入れず、できるだけ居宅介護推奨の流れ。家族に責任をなすりつけようとする政策が進むほど日本のGDPは下がります。

(当たり前ですよ。40代、50代が家で介護するわけですから。介護デフレ)

今までの介護史はすべて予選。これからが本番。

団塊世代リタイヤと共に全国で時限爆弾のごとく始まる。よく「2025問題」として語られますが、既に2022年も半ば。残り2年半ですから有事はすでに水面下で進行中。

私も介護する立場になって理解できたことですが「ケアマネに相談する」「施設に入所する」相談は当然の話で問題はそこを「頼る・頼らない」という単純な話ではないですね。制度の仕組み上そこを経由しないと手続きが進まないから利用するのですが、頼ろうが頼るまいがその人、その施設が社会性を備えていれば問題は軽減し、単なる仲介役、収容施設だと問題は増大します。

私はある程度自分の人生を突っ込んで親を介護し、自分はできるだけ医療や福祉に頼らずこの世から消えたいと思います。この後半の気持ちは親がお世話になっている介護環境を見てつくづく思うのですよ。介護の効率化(集約)とぬくもりは両立しない、と。

 

いやね、合理的に考えて今すべきことは「介護の効率化(集約)とぬくもりの両立」です。

それは間違いない。でも両立しない。

 

問題は「ぬくもりの温度差」です。これを「お金次第」で解決できるとしたら「ぬくもり」という言葉は偽善です。でしょ?

(まぁ現代の結婚なんて言葉遊びで「お金次第」だけどね)

実は私の親もわたしから見て祖父母を施設に入れました。その因果応報とも取れる展開が自分たちに起こった時「自分たちも福祉施設に放り込んでくれ」というのが筋ですが現実は「自分たちは入りたくない」というのは理屈に合わない。

 

世の中にこんなことで悩む人が溢れかえる日までまもなくです。

 

例えば体に障害が出ると家での入浴が難しくなりデイサービスなどのお世話になるわけです。これを健常者視点で見ると同じ社会ですが、つい先日まで普通に暮らしていた者から見ると明らかに別の社会です。なにせ体の不自由な人が集められた場所ですから。

(言うなればリアル洛中洛外図)

残念ながらこの体験は自分が壊れゆくことを悟るプロセス故に徐々に受け入れるだけであり、すくなくとも最初は、そして利用しはじめてしばらくは利用者本人も「行きたくない」というのが本音であることは介護未経験でも想像がつくと思います。それを証拠に施設運営側は「最初は皆さんそうですよ。嫌がられますから」というのですから完全に麻痺した回答です。

 

自分の親を施設に放り込み、自分は自分の人生があるというのが今の常識ですが、違和感がない人は自分が逝く時も同様の対応を望むということです。私の親も最後はそうなるかもしれません。しかし認知がまともなかぎりは介護したいと思っています。

 

まぁ、私が福祉施設を利用する段になると私も不条理を感じるでしょうね。福祉施設に。

 

かなり乱暴に言えば「優性・劣性」みたいな線引きされた場所に見える。そんなだから私は「福祉施設は経由せんでええよ。癌でも脳梗塞でも心臓病でもそれが寿命でよい」と判断します。独身とはそういうものですかね。

願わくば順番どおり親を見届けてからいければ悔いはないですな。

私もそういうことを考える歳になりました。

老健の冷遇メモ - たぶん団塊の世代は耐えられない
日本全国の方が悩まれているであろうこと、これから未来に向けて(ほぼ)すべての日本人が悩まれるであろう老健(介護老人保健施設)について自分の体験をメモしておきたいと思います。
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