パンパの風趣に魅せられて – ブエノス・アイレス在住三十余年の体験記

ありがたい一冊
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暫く読み進められない本が枕になっており、この本もそのうちの一冊。

厚さがあって枕としての安定に寄与。

そんなことはどーでもよく、相変わらず南米絡みの本を読んでおります。既にパラグアイ、奥アマゾン、コロンビア、キューバを制覇。本日はアルゼンチン。

自分の経験値に頼れない国ですが読み進めた第一印象は全ての記録が「細かっ」ということ。

なんで国内では出不精でも外国に行くとあちこち放浪しちゃうんですかね。この筆者もそんな気が旺盛なタイプみたいです。パトロン(身元引き受け雇用者)との関係やその後の職歴など、日本的ではないアルゼンチン常識はこの界隈の情報を持ってない者としては楽しく読み進められます。

内容は日本の移民史最終盤から現代が描かれております。以前にメモしておりますが日本から船での移民は昭和48年(1973年)が最後。2021年から見ますと48年前で大昔のように思えますが私から見ると「2歳」の時代です。それだけで衝撃。

日本人なら知っておきたい「ハポネス移民村物語」
この話を元に移民情報を漁り始めてたどり着いた息子の勘は「それはウルグアイじゃなくてパラグアイでね?」というひとつの仮説を頼りに買った本が「ハポネス移民村物語」です。名字を辿るとアルゼンチンにも見受けられ...

ですのでいわゆる「木の切り株やミカン箱をテーブルにして食事」という戦前や敗戦直後の悲壮なストーリーではないのですが、それでも「柳ゴオリ(行李かご)」といったキーワードが出てきますから令和から見ると昔話です。

言わば私の親が移民終盤をチラッと目撃した生活日記といった感じです。

これだけ南米系を読み漁ってるぐらいですから余生で1度は訪れてみたい場所になりつつある国のひとつですが帯には「サッカー、タンゴ、イグアスの滝..」いやいや、アルゼンチンと言えばコレでしょ。ま、世代的にはマドンナ版でしたが。

 

読み進めますと全般的に「アルゼンチン釣りバカ日誌」的要素が散りばめられています。第6章はズバリ「魚釣り」です。私も次なる人生最終盤の旅は旅先で釣りぐらいしたいと思っており、大いに参考になりました。

そんなこんなで印象に残ったポイントは…

視界に捉えられる平坦な地域を「カンポ(Campo)」と言う。アルゼンチンに「やまびこ」の概念がないのと同様に日本語でカンポを適切に形容する言葉がない。 (つまり「自分の目で見て確かめよ」ということでしょうね。アルゼンチンもゆっくりと訪れてみたい場所のひとつ。

公立小・中学校には成人学級がある。 (この一節にドロンズのヒッチハイク縦断旅を思い出した。確かあの番組でもスペイン語を小学生と共に学ぶシーンが映っていたと記憶。 社会の底辺で頑張っている連中が通う場所と表現されていましたが、日本の教育システムから見るとかなり合理的に見えます。

インフレが激しい世の中になると、長期間にわたって資金の融通を必要とする建築などは。先の見通しが立てられないだけに、危険な事業と敬遠されて、誰も工事を手がけるものがいなくなったりする。また、クレジットによる取引(特に金額の張る不動産、自動車、資本財、機械、家電、etc)は成り立たなくなって現金取引だけの商売になってしまう。 (1970年に13%のインフレ率は10年後の1980年に150%。こういうことが日本で起こる可能性もあるわけで…本書には不況でも日銭が入る仕事を勧めてあった。

あの当時は、アルマセン(食料品店)の包装紙といえばどこでも古新聞を使っていた。ファクンドの所では、その新聞紙を大切に集めておいて、アサードの時の焚き付け、木を燃やしてヤカンを沸かす時、また、その辺の枯れ草を集めて蚊遣りを炊く時の貴重な焚き付け材料になった。 (よもや新聞紙が不要の時代が来ようとはね。今は田舎でもゴミを焼いたら苦情みたいな世知辛い時代ですな。

1848年リカルド・ニュートン氏によって針金が初めて英国から輸入された。私有地を囲う方式が導入された事は、農牧業の発展に画期的な影響をもたらしたのであった。…一頃は1ヘクタールが3ドルから10ドルぐらいの物(土地)がたくさんあった。 (曰く土地代より柵代の方が金がかかるそうで、それだけ広大な土地なんですな。日本の7.5倍ですか…

文化とは地球上を取り巻いている空気のようなものだから、目には見えないし、有り難いとも思わないのです。しかし、他の星から眺めたら、その空気はちゃんと見えて、その空気に包まれた地球はなんて素晴らしい星だろうと羨ましく思うのです (なるほどねー。ちょっと中島みゆきのような神目線ですな。

もし教授が移民史編集室のドアを叩いた時に、自己紹介されるよりも、私の前で「これからの人間は、コンピューターと英語だ」という合言葉を言ってくれたら、私は、ピンと判ったはずであるが、残念。 (案外これは今でも通用するようにも、時代遅れの両方に読める。テクノロジーに振り回される時代が来てもアルゼンチンの広大さの中では気にする必要はないかも。

どんな人間が外国生活に向いているのか?私に言わせると、山男のように孤独を愛し、1人でもくもくと歩き続ける忍耐力を持っているような人間が海外生活にむいているような気がする。…ただ、一つ言えることは”夢”を持っている人とそうでない人では頑張りが全く違ってくるのは当然。 (私ぐらい孤独に耐性が出来た中年もいないと思う。言うなれば務所暮らしの受刑者よりも口数が少ない生活に慣れてるなんて書くと皆驚くが事実也。

筆者には申し訳ないが、本題より横道に逸れた話が面白かった。筆者にとっては横道が私にとっては幹線道路のような知らないことだらけ。

特に私の好奇心をそそったのが「第6章 魚釣り」の冒頭の行(くだり)。

以前「奥アマゾンの日系人…」を読んだ時の興奮が再来。

奥アマゾンの日系人・ペルー下りと悪魔の鉄道
10月は古本を大量購入して読み漁っていたのですが介護周りが忙しすぎて手にしたどの本も途中まで読んでは止まりを繰り返していました。月が変わり11月になってついに1冊読み終えました。それが「奥アマゾンの日系人」という本。こんな凄い本を残した方がいらしたんですね。

あの時はペルーからアンデス山脈を超えてアマゾン川を東へ向かうペルー下りでしたが、今回はボリビアを経由してパラナ川南下するルート。ホンマかいな !  !  ! 

もちろん本線はこのパラナ川での釣果について触れたいわけで、その伏線として初期の移民に触れてあるのですが、そらー伏線の方が釣りよりも刺激的。

★印を転々と移動した日本人

奥アマゾンに書かれていたことを勝手に足して妄想すると、たぶんペルー移民として入った農場の劣悪な環境に嫌気がさして脱走した日本人が当時可能な範囲でペルー国内鉄道で失踪というところまではほぼ一緒だと思います。おそらく情報がない時代ですしアンデス山脈を超えた場所も似たり寄ったりの至近と想像します。

このことは「アルゼンチン日本人移民史」に書いてあるそうですが、1892年山形生まれの佐久山喜代松が25歳の1917年にペルーへ渡りサン・ニコラス耕地に入植し、まもなく脱走。

途中まで鉄道で移動し、そこからボリビアまでは2週間歩いて到着。

ゴムフィーバーに沸いていた時期なれど日本人同士の殺し合いなどがあったことが嫌になり、その後山口県出身の倉田と2人でアマゾン川をカヌーで川下る。今から104年前のお話し。

 

それよりも手前の1908-1910年ごろ、福島県出身の星喜六と菅野幾八も同じことをした記録があるそうで…すごいことですな。かの有名な「ペルー下り」は2コースあったんですな。

上の地図の赤ルートが本書に書かれていることですがルート的にはパラグアイ川を使ってショートカットできます。このパラグアイ川もパラナ川と合流するのでゴールは一緒のブエノスアイレス。まぁ記録に残っていないだけでどちらも無名戦士がいそうですが、よくもまぁこんな場所を日本人が移動したものだと感心します。

全長4,880キロもあるパラナ川がいかにアマゾン川の6,400キロに及ばないといっても普通はもっと知られていてもよさそうですが私も今回初めて「へー」と思いながら読みました。アマゾン川と違って魅力を下げている理由はほぼ世界最大級のイタイプダムがあるせいでしょうね。これがあることで下流が潤い、人間には好都合ですが自然破壊という意味ではダメですな。このダムがなければもっと世界に知られるところでしょうが…人間の営みは難しいですな。

というのはすべて枝葉の話で、本筋はアルゼンチンの生活臭をたっぷり堪能できる本。

家を買うのに一時的にドル建てサラ金したものの、当時は銀行強盗が大流行りでプロの輸送屋を雇ったとか…全く想像不可能な平和ボケ国家ニッポンに住むお花畑中年にはほどよい刺激でした。

アルゼンチンに興味があれば楽しめる一冊だと思います。

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