本日は「修身」という昔の教科書についてのメモ。
この本を読むきっかけですが、日本はつい先日まで戦争をしていた時期があり、最後は学徒動員ですから大人1年生のいわば子どもが次々と戦地へ送られ、なかには特攻隊として飛行機で敵艦に突っ込むなんてことをしております。
その若者が残した手紙、遺書、辞世の句なりの文章が大人初心者にしてはしっかりしすぎております。肝が据わっておるのですよ。しかも全員が超達筆。どうしてこんなに潔ぎよく、核心を突いた文を20代前後の若者が残せたのか?
(いい歳のオッサンですが恥ずかしながらすべてにおいて当時の若者に負けておる)
それが気になって読んだのが修身。
(読んだのはずいぶん昔のことですが)
ちなみにタイトル写真の澤柳政太郎さんはこんな人。
そもそも論として江戸までは東洋思想の仏教、儒教、朱子学などが道徳に通じており、明治以降からは西洋文明にカブレることで東洋思想は衰退。当時の有名人が下の本などを解釈して新しい道徳概念が生まれたわけですが、「これも教育という名の金儲けだよね」とは思います。
江戸の道徳は学問手前の学びと受け取れますが、明治以降は学問として組み込まれその時期に日本初の東京大学が生まれ、以降現在に至るという意味で学歴至上主義のビジネスモデルは明治からの話です。かつての寺子屋が学校へと変わったように、学び方も変化しております。
大学を卒業したから偉いのではなく、難しい大学を卒業すると高い給料がもらえる仕事が約束される仕組みで儲ける人たちがいて、政府も加担し、その仕掛けに多くの日本国民が乗っただけ。それもコロナ禍では「仕事は保証するが給料は安い」というところまで落ちており、次は大学を出ても仕事は約束されないステージに入りますから損得勘定教育もたいがいです。
話を戻し、修身の教科書は明治23年から敗戦まで使われていました。つまり1890年から1945年の55年間だけ使われていたことになりますが、たった55年にしては内容を濃く感じます。
これが軍国主義に傾倒するか否かは横に置き「修身、日本史、地理」を極めれば自ずと世界や社会の中で自分の立ち、国家の立ち位置を把握できるのでは?と思います。
いまでは「道徳」で知られる「修身」ですが、私がこれを買った当時から現在にいたるまで何度読み返しても「言葉の威力すごっ!」と感じる本です。
あくまでもわたしが文字づらからうける印象ですが、たとえば道徳という言葉からはそこはかとなく公衆の面前において道を外さない印象があります。皆が守る社会規範・ルール・マナーのようなもので三人称単数な印象です。もっと平たくいうと「みんなが同じ理解」な感じ。
ところが修身だとガラリと印象が変わり、一人称が大切に思えます。個人が身を修め、自立した人の集合体で社会が成り立つ印象。いきなり主体性を求められる感じ。これも平たくいうとゴールは一緒だけどルートは全員違って当然。各々が別々の道を歩んでも、なにごとも極めれば答えは自ずと同じ場所に落ちつく感じ。
(このイメージ、わたしだけかな…?)
ちなみに外国の道徳ですとドイツでは「倫理、哲学、価値、宗教、生活形成」、フランスは「公民、市民性教育」、イギリスは「市民性」、アメリカは「品性」らしいです。インドネシアは日本に似ていたり、マレーシアはかつてイスラムな教えが濃かったり、欧州で宗教史がはっきりしている国は宗教哲学が道徳の入口であったりと様々。同じ国で地域ごとに教えが違うことも普通らしく、それぞれの社会背景や戦勝国・敗戦国の違いによる教科書の違いなどありそうです。
(学力ではなく、自分で情報を取りにいき、考え抜く地頭を鍛える必殺技が修身でね?)
「身は修められる」という言葉の持つ幅や深さが面白いですよね。しかも国民が等しく徳とすることを自国の言葉で学べるというのは戦争のような誤った方向へ向かわなければ人生で最強の武器になります。
(この本は古本として簡単に入手できるので興味がある方は是非に)
手元にあるものは3つの印鑑が押印されており、3人の日本人が回し読みしたものと思われます。そのうち1人はローマ字でサインも残してあります。綴を間違えていますが大正3年で逆算すると108年前の教科書。その頃の中高生も英語で名前を書けたわけです。
余談はさておき修身は大分類で5版存在しており、そのうち1-4は概ね似たようなことが書かれており5版目だけは戦時下が色濃く反映されているそうです。私のものは3版と思われます。ほどよく寝かして熟成されたバージョン。
でね、冒頭の「若者の文章がしっかりしすぎている件」ですが、この本を読むと納得な点が多々あります。もし私がこの教科書を習っていたら、たぶん人生が変わっていたと感じます。
面白く感じた部分を巻一から少し抜き出しますと…
未熟なるものは發達す。實生えの小松も年を經ば雲をつく大木となるべし。長き將來を有する學生の前途は實に多望なり。之に反して早熟は望ましからず。早稲は収穫少なく晩稲は収穫多し。古人はいへり「大器は晩成す」と。
書籍文房具はいふまでもなく、衣類履物等に至るまで、すべてそれぞれの場所を定めて収めておくときは、室内よく整ひて氣持ちよきのみならず、登校の際準備に人を煩わすことなし。かの二條の鐡路の上を頻繁に往復する汽車を見よ。常に一定の時間に順序正し發着すればこそ事なく運轉するを得るなれ。若し一たび順序を紊さば忽にして衝突すべし。
保守とは既に得たる所を確かに守るの謂なり。たとひよく進んで取ることありとね、之を保守するなくんば、眞の進歩は望まれず。左足の前に進まんとするや、右足は其の既に得たる地位を保ち守る。守る足ありて始めて進む足あり。進取と保守とは互に相悖るものにあらずして、實に進歩の二大要件なり。
日章の赤きは赤誠を意味し、周圍の白きは潔白を意味するものと謂ふべし。
どれも「イロハのイ」みたいな話ですが、なんとなく日本人らしさの原点のようなものを感じさせますよね。
「秩序の必要」なんて当たり前ですが今ではネグレクトなゴミ屋敷ニュースをよく見ますでしょ?それは私の父親そのもの。80歳を過ぎて散らかし放題。だからこの章は私には新鮮。
この教科書が消されて77年経ちましたが、学んだことが社会に生かされるという意味では長寿になったことで文字通り百年の計を果たしており、それをぶっ壊すにも百年を要したことになり、この世代が去ると修身の体現者は日本から消えます。
そんな風に歴史をみると若き学びは生涯の行動指針になることがよくわかります。
この本は全3冊ですが私のおすすめは巻二と巻三。目次だけで好奇心がそそられますょ。
巻二のおすすめは「言語」「眞に恐るべきもの」「考えよ」「思ひ遣り」「自利と利他」「日本人のく體格」「日本人」。
巻三は「希望」「萬物の靈長」「獨立の準備」「酒」「新奇を好む心」「勇氣の源泉」。
もっとおすすめの本が明治の「尋常小学 修身」。
こちらは低学年用教科書ですが、その当時から見た偉人列伝が多数紹介されています。
私の記憶でもこういった日本の伝記、世界の伝記は学校の図書室で借りて読む印象しかありません。自分で勝手に勉強しなさいスタイル。昔は授業として教えてたんですね。
尋常小学修身科の教科書ではなく「教授書」が国会図書のデジタルコレクションで無料で読めます。ありがたや。
詳しくは読めば分かりますが、それぞれの章で教えるべきポイントが書かれており、1冊目の最初から順にさわりだけメモしますと「友愛」「清潔」「貪食」「孝順」「信義」「貪慾」「正直」「慈悲」「正直」「友愛」「勉学」「孝順」「貪慾」「親愛」「履約」といった具合。
とにもかくにも「友愛 = 兄弟や友達、みんなと仲良くしなさい」からスタートしています。
昨今の社会問題をさかのぼると、日本民族という意味では非常に大事な要素に感じますしグローバル思考だと「道徳はほどほどに金儲け優先」といった感じでしょうね。
「徳が大事か、学が大事か」の違い。
日本で暴動が起こりにくいのもこういった学びが作用しているわけです。
最も興味深く感じたポイントは、内容構成が「人間、動物、自然」の物語だらけということ。基本的に主語は学んでいる子ども本人というのは当然ですが、社会構造も「お父ちゃん、お母ちゃん」から順にさかのぼって辿れます。日本人だと当たり前の話ですが世界の中では異質。
「神との契約、奇跡、選ばれた民族」みたいな西洋宗教的要素はまったくありません。もちろん天皇についても書かれていますが、全体から見ると記載はごくわずか。それでいてGHQに禁止された教科書ですから全体を通じてとても本質的なこと、心根を強くすることが書かれているわけです。
文科省HPには徳育は「資質・能力である」としてこんな解説文があります。
(知育・体育・食育との関係)
○ なお、徳育によって身につける道徳性の涵養が、人格の完成に欠くべからざるものであることにかんがみれば、徳育と知育、体育、食育には、具体の実践において、重なり合う部分が存在する。例えば、規範意識の醸成や公徳心の育成、社会性・人間関係形成に関する能力の育成には、法規範についての教育や、社会問題について論理的に分析・思考することは意義あるものである。また、スポーツ活動を通じて、ルールやチームワークを学ぶことも効果的である。さらには、食に関する指導を通じて、適切な食習慣を身につけることは、徳育と食育が重なり合っている領域である。
○ しかしながら、人の発達や行動についての合理的な理解や分析がどれほど進もうとも、論理通りに行動が行われるとは限らないのが、現実の人の姿である。人間は多くの矛盾や葛藤を抱える存在であり、人がその生涯において直面する問題は、知的理解や合理的な説明だけでは必ずしも解決できない。
○ それでもなお、自己と向き合い、「志」を持ち続け、主体的に人生を切り拓くために不可欠な力を身につけることが、徳育に期待されるものである。そして、徳育の十分な取組は、知育・体育・食育などの、基盤となる教育が着実に実践された上で、はじめて期待できるものと考えられる。
この文からは四位一体に受けとれ、その解釈が正しいか否かはわかりませんが徳育がなければ頭でっかちで、有り余る体力が暴走し、暴飲暴食に明け暮れると理解できます。
徳育がおざなりになると、その他3つも不完全にしか機能しない。
(人格形成に勉強、運動、食べ物、そして徳が大切ですよ、ということ。)
最近はもっぱら親の介護に時間を割いておりますが、それを苦と思わず続けられる基本はおそらく小学校低学年で教わった何かが私に作用しているものと思います。そうでなければつじつまが合わない。
(特別な勉強はなにもしておりませんが…)
以前モースについてメモしましたが、そこに写る子どもたちの笑顔たるや。
明治、大正、昭和初期はこの教科書で勉強してこの笑顔。
ここに写る子どもたちも広い意味で私の親戚です。
これを書きながらエンペラー吉田こと吉田十三さんの座右の銘「偉くなくとも正しく生きる」が降臨。よい言葉です。本当にそう思う。既にお亡くなりですが大正元年(1912年)にお生まれと判明。福島弁がお懐かしいかぎり。(YouTubeでご存命)
話を戻し、おそらく吉田さんも学んだであろう尋常小学修身科教授書巻二からは「正直」について書かれており、「正一垣内ニ錢遺セシ話(お金を落とした話)」「直一貨幣ヲ拾ヒシ話(お金を拾った話)」と続きます。ここに「遺失物の持ち主が分かれば本人へ伝へ、分からねば両親に相談し、解決せねば警察署等へ届けよ」とあります。
日本人が財布を拾ってもネコババせず交番へ届けるルーツはここにあります。
戦後修身教育が廃止されれてもいまなお「遺失物は交番に届ける」という教えが機能しているのは戦前の修身教育のお陰です。ガチですよ。
修身を学んだ世代がこの世を去りつつある今、再び修身を学ぶ価値があるように思います。
吉田さんの名言「偉くなくとも正しく生きる」は修身の極意のひとつでしょうね。それにしてもこの教科書、子どもが読めばただの勉強ですが、大人が読み返すと頭が痛くなります。自堕落な身にはとても厳しい。
このところテレビや新聞はもっぱら統一教会と自民党の関係や宗教2世問題をとりあげているようですが、この問題が起きた原因はおかしいことをおかしいと思える知識や考える力、感性が働かないせいですよね。たぶん。
(学力はあっても知性が足りない)
翻訳に多少の違いがあるものの聖書を読めば「アダム南朝鮮に日本が貢ぐべき」みたいなびっくり教義に違和感を持つのが普通ですが信じて献金され、その額も常軌を逸した額。
(これに関しては知識が足りない)
かつての大事件がいつのまにか忘れ去られ、日本国民の日常生活に平然と紛れ込み、政府も反共産の名残としてズブズブの構図。外国から見れば普通にカルト国家、カルト国民です。
(もっと大事なことが山ほど無視されてるけど…)
なんでこんな異常事態が通常営業で起こるかといえば令和4年現在80歳を超えた私の親ですら修身を学んでいない世代なのですよ。若い方から見ればジジババはすべて一緒に見えるでしょうが、この教科書はそれだけ過去のもの。
いまの80代と90代は戦後と戦前の違いでもあり思考が違って当然ですが、修身を叩き込まれた世代に教わることで80代は規律の維持はできても思想は侵されたように思えます。
(自分の親をディスってますが…)
たとえば先日母親が「お爺さんに “国語は心を学ぶ本” って教わった」と言っていました。私から見て曾祖父さんは明治生まれの敗戦前後死亡世代。この辺りの世代は学問を修めていなくても教養が高い、徳を大事にする世代と思われます。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とかいいますが「修身、日本史、地理(地政学)」を捨てたツケが敗戦から約80年後に強烈な効果を発揮し、とくに直近30年は労働人口の約半分が経済的にも健康的にも貧乏になりましたから、ここから日本を日本らしい国へも戻すのは至難です。
(超頑張ってもゼロへ戻すのに最低10年は必要でしょうね。話はそれから)
合理的に考えると、今後数年で日本を出て海外で暮らす日本人が爆増するはずで、年齢が若く学歴が高いほどそうすると思います。断言します。爆増しますよ。
ただね、人間は人生の途中でなぜか「自分は何者で、どこから来て、どこへ行くのか」を考える時が来ます。そのときに何を思うか、ですね。
とくに日本人同士が結婚していて海外へ出る場合、それは「泥舟国家と心中は御免だ」ということだと思いますが、文字通り沈みゆく国を外から眺め、親や親戚の姿をみて何を思うか。それぐらい日本は危機に瀕していると思います。
以上、修身を読み返して頭痛にさいなまれたメモでした。
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