本日はペルーの本。移民史というのは波瀾万丈という言葉がピッタリで、この本も内容が濃い。
著者がご存命ならそろそろ90歳。私の両親より約10歳上というだけでこんなにも壮絶な人生なんですね。読み終わったらお腹いっぱいでした。
本書のメインは日系ペルー人のアメリカ抑留
そもそも日系ペルー人がなんでアメリカに抑留されるのか?
私はこの世界史を知らなかったので読みながらポカーンとしておりました。
いまでは「抑留」という言葉すら聞かない時代ですが、そのむかし太平洋戦争時に北米大陸に移住していた日本人DNAは敵性外国人の危険因子として捕えられ、資産没収され、無一文で収容所に放り込まれ、そこから442部隊だのといったアメリカ側のストーリーではありません。
南米ペルーに移り住んだごくフツーの日系人がペルー政府の「アメリカ大陸の安全のため」というアメリカ政府の口車に乗ってアメリカのそれと同様に家を追われ、この方の場合はペルー移民なのになぜかアメリカのテキサスにあるシーゴビル抑留所に監禁されたというお話。
アメリカという国も叩けばホコリだらけですな。
人質要因として波乱万丈の人生
日系ペルー人がアメリカに連れ去られた理由は、日本軍に捕虜として捉えられた米兵との交換用人質というウソのようなホントの話。
ペルー以外にもドミニカ、ハイチ、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、パナマ、コロンビア、エクアドル、コスタリカ、ボリビア、メキシコの日系人2,264人がアメリカに連れ去られ、米国内の収容所や抑留所で過ごし、その後日本に送られた者、中南米の各祖国へ戻った者、アメリカに不法移民的滞在を続けた者など様々。
本書には日系人同様にドイツ人も登場します。「たぶん日系人と同パターンでドイツ人も人質にしてたんだろーなー」と思いながら読みました。ほんに戦争というのは悲しみしか残しませんな。(似た内容の書籍で有名なのは「涙のアディオス」です。)
ここでも登場する明治生まれのシマー「八木宣貞(せんてい)」
この人は以前読んだ「奥アマゾンの日系人」にも登場する人。
おそらく八木は「屋宜」の当て字だと勝手に思います。細かいことは回顧録「50年前後の思い出」を読んでみたいところです。そんな本はなかなか入手できません。
八木宣貞さんもその一人で、沖縄移民の監督としてペルーへ着いてしばらくしてからリマへ出て、求人広告を見て海底電信局経営のイギリス人の家庭でボーイを勤めた。八木さんは日大出身で英語が少しできた。
マデイラ・マモレ鉄道の下請けとして活躍したその人です。
この当時の「ペルー下り」はゴム祭りに沸くブラジルを経由してアマゾン川を河口まで向かった人とボリビアを経由してアルゼンチンへ抜けた2パターンありますが、パイオニアの八木氏は再びペルーへ戻り劣悪な環境で働く日本人をレジスタンス的人助けで支えた人。
のちに八木宣貞さんもアメリカに拉致られました。壮絶!
(知らなかった…)
断片的に八木さんの壮絶な人生を知るにつけ「なんでそこまでして生きるエネルギーが湧いてきたのかなー」なんて思うわけですがですが…時代、年齢、多動力が関係してるんでしょうな。
そういえば「頼母子講(たのもしこう)」についても書かれていました。
沖縄コミュニティはいまもこれを続けていると聞きますからシマーDNAの互助力というのは筋金入りです。超シンプルな無尽システム。実に人間的心を持った郷土愛溢れる方々と感じます。
やっぱり気になる「ペルー下り」のルート
気になる場所なので書いちゃいますが、今回改めてこの本書に書かれている地図とGoogleマップを見比べてルートを妄想したのですが、この本に書かれていることが事実なら、はやりアリコマ峠から先は大変な道のりです。
現在この道を進むとたぶん最初の小さな集落がウアンカラ二(Huancarani)だと思います。あくまでも「だとおもう」という仮定ですが、この道は最終的には右回りに南下してプアラ(Puhara)辺りで行き止まりです。しかし図では徒歩でタンボパタ川沿のアスティエロを経由してプエルト・マルドナドへ行くルート。
いまではもっと北側にある348号線から30C号線を使ってプエルト・マルドナドへ行けますが、このルートではないようです。アリコマ峠とアスティエロ間は(たぶん)道なき道を前進したことになりますが…。
当時の日本人の庶民のトランクは背負いにくい「行李カゴ」です。そこには2-30キロになる荷物が入ってるわけです。標高4,850mを徒歩で越えるとなれば防寒具、雨具、寝袋(のようなもの)に食料も要る。こんな行軍は消費カロリーが違いますから「こりゃぁ、道すがらハンティングしながら移動しないと途中で野垂れ死ぬな」と妄想していました。
トータルで3-40キロの荷物を背負ったチビっ子体型の日本人がアンデス山脈の僻地を歩く姿を想像すると「どんなことを思いながら山を越えたのかなぁ」なんて思っちゃいます。かつて日本軍の装備が30キロ、荷物が30キロ、合わせて60キロで敵地を移動した話も聞きますからアンデス山脈越えも成立する話ですが私には到底ムリですな。
為替差益で資産が増え続けた1世紀
コロナ禍バブルマネーの回収方法によって今後の展開は大きく変わりますが、少なくとも明治、大正、昭和、平成の1世紀は貿易に従事してるとそれなりに財を築けたようです。
この辺りのことはありがたいことにwikiにびっしり書かれておりまして「為替相場は大暴落して金解禁直前に100円=49.38ドル(1ドル=2.025円)で事実上固定された状態にあった相場は、半年で30ドル(1ドル=3.333円)を割り、1年後には20ドル(1ドル=5.000円)を割り込む事態となった。」らしく、今までは移民の地道な資産形成が数ヶ月で10倍になれば見えない世界が見えてきます。
1932年は南米日系コミュニティにボーナスターンがやってきたということでしょうね。
歴史を多面的に見られる面白さ
苦難の人生を茶化してるわけではなく、捉え方や角度を少しずらすだけでこうも歴史は見え方が変わるものかと感心しております。山崎豊子の小説を読んでる感じ。
著者は第二次日米交換船で帰国されたそうです。その事実もwikiにもびっしり書かれております。
いまの時代にこのルートマップを見ても驚きませんが1世紀前に子どもがこのスケールで地球を捉えるというのは稀有なことだと思います。しかも移民、拉致、帰国の人生ですから。
「交換船で帰国」と書けば話はそれで終わりですが、wikiにこんな一文が載っていました。
第二次での帰国者にはつい最近まで活躍されてた鶴見俊輔氏なども同船してたんですな。
三谷幸喜氏脚本の「わが家の歴史」を見ているような不思議さ。当事者が記録しなければ忘れ去られたことがこうして本になって残り、なんとなく手にして読んでおります。
「かなりやの唄」なるタイトルの真意
さすがに団塊jr世代で「かなりや」のメロディを口ずさめる人は少ないですよね。たぶん教科書にも載ってなかった童謡だと思います。
私はつい最近ボニー・ジャックスの歌謡百年CDを入手していたのですぐに聴けましたが「んー、小さい頃に聞いたことがあるかもなー」ぐらいの怪しさ。
私の世代は「歌を忘れたカナリヤ」のタイトルで記憶されています。
この頃の童謡というのは「山寺の和尚さん」のように案外と残酷な歌詞も多く、いまだと炎上しそうですが、この童謡もその1つ。
カナリヤを「山に棄てる、背戸(家の裏手)の小藪に埋める、柳の鞭でぶつ」なんて激しい内容の歌詞は作詞家西条八十自身のスランプを投影した内容らしいですが4番の歌詞「忘れた歌を想ひだす」で救われます。
どーですかね…
たぶん「著者=かなりや」とか「ペルー移民=かなりや」ということでしょうね。
ペルー日本人移民史なんてカナリヤが歌を忘れる如く口にしなければあっさり忘れ去られることですが、この本を残すことで「忘れたペルー日本人移民史を想ひだす」ということなんでしょうね。
とにかく日系フィルターを通した南米(移民)史を知りたくてこの手の本を読み漁っておりますが、データもしっかりしており読み応えがありました。「かなりやの唄 – ペルー日本人移民激動の一世紀の物語」おすすめの一冊です。
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