去年の8月に「壊れた脳 生存する知」についてメモしておりますが、その続編となります。気になって買ったまま車の中に置いていたものですが、先日の事故で修理するのにガサゴソしていたら出てきました。よいきっかけとなりました。
ぼちぼち半年前のメモですか。時間が経つのは早いですね。
改めて書きますが、この本は山田規畝子(きくこ)さんというお医者さんが自身のモヤモヤ病、脳出血、脳梗塞、高次脳機能障害を患者の立場から解説された秀逸な本です。経験しても説明が至難の病気ばかりですが客観的に書かれております。もはやこれを書き残すために与えられた天命と感じるほど説明が難しい病気のことを平たく丁寧に書かれており、読むだけで別の意味での薬効を感じる本です。
オジサンの極めて肌感覚な読書タイミングとして先の「壊れた脳 生存する知」は急性期から回復期に読んで安心感を得られる一冊、今日メモする「壊れた脳も学習する」は維持期や生活期に読んで更なる安心感を得られる一冊に感じました。
少し話がそれますがKUMONの学習療法センターのサイトには脳を鍛える生活原則が載っています。
- 「読み書き」と「計算」を生活の中で使うようにする。
- 人とのコミュニケーションを心がける。
- て指を使って何かを作る。
これを1日に5-10分繰り返すだけで活性化されるなんて…。私の父親も僅かに認知症を感じる行動が増えてきました。ボケたくなければ学びと食生活は律して行動する必要がありそうです。
その山田規畝子さんとオジサンの関連性はゼロですが、ご子息筆の情報によると2018年の3月に左脳出血で倒れられ「失語と全身の麻痺」でリハビリされていたようです。文脈から推察するになかなか厳しい容態であったことが想像できます。倒れてからそろそろ1年が経過します。少しでも穏やかな時間が取り戻せていればと願うばかりです。
その方が言葉を失う前、全身麻痺を患う前に渾身の努力を傾けて残された本です。今から11年前に発売された講談社の本に加筆修正が加えられて2011年に角川から出されたものです。先回の本も感動の内容でしたがメモの内容はユルユルに留めました。今回は少し細かくメモしときたいと思います。
そもそも「高次脳機能障害」なんて言葉は当事者にならないと気に留めることもなく、なったときには当事者でも戸惑うのに、人によっては外傷無く生活される方も多く「何の障害なの?」という社会認知レベルの時にこういった本をリリースされた意義は深く感じます。
やっぱり行き場を失う障害者
少し前に自費リハビリについてメモしました。
自費リハビリの問題点はゴールなきマラソンと一緒で身体機能回復レベルが不明のまま努力し続けることへの疲労感のようなものだと思います。さりとて医療保険の範疇で回復期リハビリの効果が薄く見込みが低ければ切り捨てられる現状の医療制度であれば自費リハビリも止む無しです。
「不十分な機能のまま家庭に帰され、困難を抱えて生活しながらも、リハビリも受けられないというケースが多くなっています。高次脳機能障害の患者は、自分が誰でどういう状況に置かれているかなどの自覚があり、知能の低下が軽度なことがかえって災いする」と書かれている通りです。
高次脳機能障害について平たく説明した文が少ないのですが当事者ならではの解説に納得しました。
「人間が生まれもって備わっている能力ではなく、子供が小さいうちから少しずつ学んで蓄積してくる能力、つまり、記憶や感覚を総合的に使って問題を解決したり意思決定をしたりするうえで非常に大事な脳の組織が損傷されました。」これが「高次脳機能障害」と呼ばれるものです。…中略…「人との関係で繋がりながら、働くときは働き、休むときは休む、遊ぶ時は遊べる能力が壊れる」という意味です。
「新しい物差し」で物事を考える
なにごともその立場にならなければ痛みが分かりませんが、この病も最たる例でしょう。障害を患うと普通の生活には何事に於いても時間がかかります。時間をかけても出来ないことも多々です。
障害を持った人を助けるには「医学的な知識だけでは十分ではなく、非常に遅いペースではあっても、本人が乗り越えることのできた小さなことを計れるぐらいデリケートな物差し」を持つ必要があると書かれていました。つまり1cmではなく1mm以下の進歩や改善を見逃さない協調感が必要という事でしょう。
人間として障害者に対して本当に親身な接し方ができる人の言動はこういうことなんだろうと思います。身内で「この病気はそういう病気」なんてありふれたフレーズを言って誤魔化した会話をしているようでは患者の気苦労が増えそうです。
私はこんな風に理解しました。「千里の道も半歩から」。
この点に関して勇気付けられる一節がありました。
…中略…
一つ間違いなく言えることがあります。それはこの障害では、その人がもともと持っていた脳の能力をひとつ残らずなくしてしまうのではなく、どの患者さんにおいても失った能力は部分的なもので、それも「喪失」というよりは、能力の極端な「弱体化」と言った方が正しいということです。
社会とのつながり、関わり合いを奪い取らない
介護者の親切が仇となることが書かれていました。
これもどこでも目にする光景だと思います。「全部見ていなければ、どんな失敗をしでかすかわからない」といって赤子を相手するかのように対応するアレです。案外夫婦で思い当たる節がある方も多いと思います。
「そうして現実社会との直接のつながりを取り上げてしまうのは、極端に言えば、「もうあなたは社会にはいらない」って言っていることになるのではないでしょうか」。
注意力のスイッチを自在に操る
これまた健常者には全くピンとこないことですがとても参考になりました。
これはある意味とても高度なテクニックと感じます。「注意障害である自分を、毎日、あっちやこっちから眺め回し、人間が何か行動をする時には、まず注意のスイッチをオンに入れなければならないことを、ある時、実感として知りました。それは、自分でオンにもオフにもできるスイッチです」。
つまり健康に暮らしていると注意力のスイッチはオートマです。それが高次脳機能障害になるとミッションになります。自分で意識してシフトレバー操作をすると同様に、例えば「利き手でない左手の注意スイッチを入れるぞと意識すれば、思ったように力が入る」そうです。
たぶん全員が持っている前頭前野の「前子ちゃん」
山田規畝子さんの脳内に存在するもう一人の自分とでもいう存在の「前子ちゃん」ですが…。この行を読みながら少し不思議に思ったことがありまして…「そんなの誰だって自分の「前子ちゃんが」いるんじゃないの?」と。
これも当事者でないと分からない感覚ですが、山田さん曰く「前子ちゃん」の動きで物事が上手く運ぶこともあるようです。それを文字で整理すると前頭前野で考えた「思考と感情」が意思となって行動へ移ると解説されていました。
そういう感覚ありません?自分の中の「前子ちゃん」。
ということで…どんな人でも、どんな状況でも脳は常に学習しているんでしょうね。ただそのことに関して無知すぎる人間が高次脳機能障害という名称で分類して初めて理解できるようになってまだ半世紀も経っていません。意識と無意識の両方で1つの脳となるわけですし、高次脳機能障害だからといって嘆くことなく小さな進歩を見逃さず、見えないものを見る努力が機能改善に繋がるような気がします。
かつて「はえば立て、立てば歩めの親心」の毎日新聞記事でこんなのがありました。
全人類誰もが経験する赤ちゃん時代も努力なくして歩けないようです。
「雨垂れ石を穿つ」といった感じですかね。
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