原爆資料館へ行ったのは昨日今日ではなく昨年の9月ごろ。リニューアルしたことは知っていたのですが、こっち方面に用事がないと立ち寄る理由もなくのびのびでした。ちょっとした用事の合間をぬって突撃。
そして今年も暑い夏がやってきました。
毎年思うことではありますが、一瞬で人間が蒸発するほどの熱線と爆風だったわけですが、NHKの新日本紀行で原爆供養塔のことをやっていました。7万柱でしたか。そんなふうに人生を終えた人も世の中にはいらっしゃるわけです。恐ろしいやら悲しいやら。
私がこの場所に始めて訪れたのは小学校低学年で、当時は被曝した馬の剥製なども展示されていたと記憶しています。
例の、皮膚がただれた「うらめしやぁ〜」状態で街をさまようシーンを再現した蝋人形などのインパクトは絶大で、当時の私は恐ろしくて夜中ひとりでトイレに行くのが怖かった記憶があります。
部屋の壁に背を向けてカニ歩き状態でないと背後から襲われるような独特の恐怖心でした。
(とにかく生々しい、リアリティを重視した展示であったように思います)
子ども心に自分が生活で歩いている場所がそのような惨状の場所だったことを思うと胸が痛くなったことも覚えています。半分はかわいそうな気持ちですが残る半分は恐怖心。まぁ当時は鼻タレ小僧年齢ですから怖かったり、気持ち悪がったりするのも無理はないですね。
この場所の正式名称が「広島平和記念資料館」であることに先ほど気がつきました。写真に映り込むはJKのみなさま。まだコロナ禍前の平和な日々です。
少し駆け足で中を見ましたが、子どもの時に見た印象の方が鮮烈ですね。多くの展示物がデジタル化されていたので心に迫ってくるものが減ったとでも申しましょうか…。
デジタル展示は緊張感がまったくないですね。
団塊jr世代でこの感覚ですからデジタルネイティブは痛くも痒いもない、現実味のない世界のように消化できて当然かと思います。そのことが私より上の世代は分かっていないと思いますよ。
多くの展示物がデジタル化されていたのですが、そのデジタルという言葉自体もフィルター化しておりどこか他人事のような印象すら感じた時間でした。
たとえばスマート決済だとお金を使いすぎるとか、相手が自殺するまで匿名で誹謗中傷するとか、そういったことはデジタル特有の現象や感覚です。
そんな印象を受けたものですから、もしデジタル展示を続けるのならVRまで突っ込んで、自分のすぐ真横にケロイドの痛々しい状態の被爆者がもたれかかってくるような、そんな生々しさを届けた方が原爆の恐ろしさが伝わってよいような気がしました。
わたしの子どものころの記憶は本当にそんなインパクトでした。
恐ろしさと悲しさが交差し、相容れないおぞましい光景を、人間として消化できないほどあらゆる水場に死体が頭から突っ込んで死にゆく行進をしていた、そんな記憶。
この資料館のままでは間違いなく風化します。ホントに。
鳥目線で爆弾投下から爆風の流れをデジタル再現することで「こんな風に被害が及んだのか」という情報はインプットされるのですが、そこに自分の意思で想像力が働かないので過去の現実ではなくデジタルアーカイブを眺めてるだけの印象止まりです。
今この街は遺構の被服支廠を壊すか残すかで議論されてるみたいですが…
個人的には残した方がいいと思います。
たとえばポーランドのアウシュビッツで目にする髪の毛とか、ベトナムの戦争証跡博物館に展示されている奇形児のホルマリン漬けとか、ある意味トラウマになるインパクトです。そんなものに比べればまだまだ優しい遺構です。
かの原爆ドームも取り壊しの議論を経て残ったのですが、今となってはあれがない広島は想像できないシンボルとなっております。被服支廠は4棟あり、それをすべて残した際の維持管理費も大変そうですが壊すと全ては後の祭り。
つとに思うのですが…
とくにこの15年ほどでしょうか。日本は「規制改革」「変化」「既得権益云々」といったキーワードで騒いでいたはずなのに、そのほとんどすべてが潰されることなく残っております。逆に伝統文化が壊滅状態。最たるものは日本人自体が絶滅危惧種です。
変化するのが難しい?変化したものが生き残る?それは大ウソですよ。
変化に対応しながらも、大切なものを変化させずありのままで残す方がよっぽど難しく高度。
どうせ人口は減り土地は余る日が来ますから被服支廠なんて残せばよいのです。伝統文化は歴史ですから、建物を壊すということは歴史を消すということです。デジタルな時代だからこそ記録ではなくカタチある状態での保存が重要だと思います。
そんなこんなで1年に1度、戦争と平和を考える日がやってきます。
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