世界遺産マチュピチュに村を創った日本人「野内与吉」物語

ありがたい一冊
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先日から「クスコの日系人」を気にしながら移民系読書にハッスルしておりますが、本日は「野内与吉」物語です。

この本も以前に読んだままメモを残さず放置していた一冊ですが、そもそも私が「野内与吉」の本を手にした理由は、かつて親しくしていた人が「ペルーのマチュピチュへファムツアーへ行く」というので「うらやましー」と思って買ったもの。体裁は小学生でも読めるよう難しい漢字にはルビがふってあり、与吉の人生は漫画紹介されており短時間であっという間に読めます。

ファムツアー(familiarization tour)というのは旅行業界ではよくあることで、マチュピチュへ破格でご招待するので、それを日本で宣伝販売してください、というもの。例の豪華な列車で優雅な旅だったようです。

それも今では旅行会社ではなくユーチューブで「マチュピチュ、行き方」検索の時代ですが、目に映る線路や列車、石畳、街並み、荒々しい川、温泉のどれもが「野内与吉」に帰結すると思うと、インカ帝国の場所に大日本帝国の誇りを感じる不思議な場所です。

 

現代日本の移民政策大丈夫か?

ところでしょっぱなから横道にそれますが、日本も大変な状況になっていまして…

特定技能の外国人、5年で82万人に拡大 政府が閣議決定  – 2024.3.29日経

最近は「大きな話題があった日は閣議決定」という文字をSNSで見ましたがまさしくその通り。移民を爆増させれば原住民である大和民族と軋轢が生じるのは必至。移民史の通りです。

1894年にも移民民営化の波が起こり、その後しばらく日本人が日本人相手に極めて悪質なウソや搾取で悪どい商売をした移民会社史がありますが130年の時を経て再び同じことが日本国内で起こりつつあります。

(勃発済かも?)

埼玉県のクルド人問題が有名ですが、私たち日本国民が気づいていない場所で問題がくすぶっていることでしょう。いまは未だ問題になっていませんが、これを放置していると後々海外で暮らす日本人にも飛び火します。

当たり前の話ですが、長い年月をかけて世界一安全であろう国民として世界のどこへでも行くことができるのが日本人。近現代史では日系人のご苦労も加味されると思います。

イギリスのコンサルティング企業“ヘンリー&パートナーズ(H&P)社”は、2024年1月に世界のパスポートランキングを更新。同社はビザを取得せずに外国への渡航が可能な国の数を「パスポートの強さ」と定義し、定期的に統計を行っています。2023年7月の統計では日本のパスポートは3位に後退しましたが、今期は再び首位に返り咲きました。また、シンガポール、フランス、ドイツ、イタリア、スペインも日本と同率1位を獲得。日本とシンガポール以外の4か国は、初の首位獲得となります。一方のアメリカは前回の8位から7位に上昇。前回3位の韓国も2位に浮上しました。 – 出典 : ESTA

シンガポールはさておき、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、韓国も移民問題の対応を誤るとビザの壁が現れて当然。

こうした日本への出稼ぎ労働者や似非移民が起こす問題を知るにつけ、過去に海外へ渡った日本人移民がいかに平和的に物事をすすめ、時に同胞のために身を削り「私の屍を踏んで行きなさい」という行動に出たことは驚きです。

いま日本に居る、これから来ようとしている外国人がどの程度納得した行動か分かりませんが、大なり小なりの覚悟で来日。日本でマンニングする会社は体のいい人身売買みたいなことは止めてくれと心から願いますね。

 

野内与吉、何者?

やっと本題に入りますが、野内与吉は「マキナチャヨ」という小さな集落をマチュピチュ村に昇格させた人で、その場所は「なんとなく古びた温泉地っぽいよね」といわれます。

与吉さんは1895年(明治28年) から1969年(昭和44年)の人生ですが、その時代のタイムラインは?というと…(箇条書きでゴメンね)(年号リンクは同年のYouTube動画です)

  • 1895年 明治28年、福島県で野内与吉 生まれる
  • 1899年 佐倉丸で第1団ペルー移民がカヤオ港到着
  • 1904年 日露戦争
  • 1905年 アメリカで排日運動スタート
  • 1908年 笠戸丸の第1団ブラジル移民がサントス港到着
  • 1910年 日韓併合
  • 1911年 米考古学者(インディージョーンズのモデル)マチュピチュ発見というのが通説
  • 1912年 大正元年
  • 1914年 第一次世界大戦 勃発
  • 1915年 移民船の定期航路設定
  • 1917年 与吉(22歳)3月17日、紀洋丸でペルー(カヤオ)登場 / 7月放浪の旅へ出発
  • 1918年 第一次世界大戦 終了
  • 1923年 与吉(28歳)4月27ペルー帰国、ペルー国鉄就職 マキナチャヨ集落定住 / 関東大震災
  • 1926年 昭和元年
  • 1929年 世界大恐慌
  • 1935年 与吉(40歳)野内ホテル建設 (3階建て、21部屋)
  • 1936年 関門海峡トンネル建設開始 
  • 1937年 盧溝橋事件 / 日中戦争
  • 1939年 与吉(44歳)集落責任者になる/ペルー移民策終了 / 第二次世界大戦 勃発
  • 1940年 排日暴動スタート
  • 1941年 マキナチャヨ集落がマチュピチュ村へと昇格
  • 1945年 第二次世界大戦 終了 / 排日暴動終了
  • 1946年 新円切りかえ(預金封鎖)
  • 1947年 マチュピチュ豪雨で大災害発生
  • 1948年 与吉(53歳)村長になる
  • 1950年 与吉(55歳)ペルー国鉄再就職 / 朝鮮戦争
  • 1960年 ベトナム戦争
  • 1962年 キューバ危機
  • 1964年 東京オリンピック
  • 1969年 昭和44年 永眠 /アポロ11月面着陸

最初の移民開始から数えて18年後にペルーへ着いたわけですが、野内さんと私(というか現代人)の日常認識で絶対的に違うポイントは、当時の日本は「明けても暮れても戦争、戦争、戦争」の時代という点です。たぶん野内さんはどこにいても常に戦争の緊張感を持って生活されていたと想像します。

少なくともコロナ禍前の移民は「貧しい日本人が出稼ぎして故郷に錦を飾る」話ですが、それは日本が平和だったからでしょうね。最近若者が「オーストラリアのワーホリで100万稼ぐ」と聞いても別に驚かない理由は日本国内が猛烈なスピードで貧困化しているからでもあり、不幸な時代が近づくと人間は本能的に生き残る行動に出るようです。

その後マチュピチュ村長となるわけですが、マチュピチュの存在が見つかったのも1911年が通説ですからつい先日のような話ですが、それすらも知らずに福島県の大いなる田舎から突っ込んでいった野内与吉って何者?ですよね。

ちなみに通説というのは、アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世は、発見者ではなく、すでに地元では存在が知られていた遺跡を最初に学術調査をしただけの人というお話。それを担いで大儲けしたのがナショジオという流れという話もチラホラ。詳しくはwikiへ。

第11回 なぜマチュピチュは「大発見」だったのか
マチュピチュの遺跡、タイタニック号の発見や、アポロ11号、植村直己への支援などなど、水深1万メートルを超える深海からはるか彼方の宇宙まで、1888年の創刊以来、「世界の森羅万象」を伝えてきた『ナショナ...

あまり話題になりませんが、この探検隊が見つけた時に「先住民たちはマチュピチュの石の建物を避け、尾根の他の場所で木の小屋を建てて生活していた。3組の家族が暮らしており、1人の少年が残りの山道の案内を買って出た。」って…すごい話ですよね。3組の家族、ですよ。

 

マキナチャヨ集落ってどこ?

どの資料を見ても「マキナチャヨ集落が野内のハッスルのおかげでマチュピチュ村になった」としか説明されていません。ただそれだけ。

普通の人は「へー」で終わる話でも私の場合「マキナチャヨって昔はどの辺での話で、綴りは?」ということが気になり色々と探しても情報がなくてイライラしながら時間が過ぎるという…。

ここでケチュア語を調べ始めると…wikiに…

ケチュア語から日本語に入った外来語としては、ジャーキー(スペイン語形: charki, 干し肉、例えばビーフ「ジャーキー」)、コンドル(kuntur)などがあるが、いずれもスペイン語を介しているため、本来のケチュア語とは音声が異なっている。

  • アルパカ allpaqa
  • インカ inka 皇帝
  • ガウチョ kawchu 南米の牧童 → gaucho 貧しき者(諸説ある)
  • グアノ wanu → スペイン語 guano 肥料として用いられる化石化した鳥の糞など
  • ケーナ qina 葦笛
  • コンドル kuntur
  • パンパ pampa
  • ピューマ puma  
  • マテmati 1. ひょうたん、2. マテ茶
  • インティ・ライミ Inti Raymi 太陽の祭

まったく横道にそれて「へー、アルパカってそーなのか」という状態。この言語も話せた与吉も恐るべし。

(そんなことはどーでもよくて…)

AIを駆使して調べた私なりの理解ですが、マキナチャヨは「Maquinachayoc」というスペルになるそうで、その意味は「Maquina : 機械(を置くための) + chayoc : 場所」という意味があるとの記事を見つけました。それは与吉よりも早く訪れたマチュピチュ発掘調査の人々が関係しており、発掘のための機械や労働者がランデブーする場所の意味があったと推察されます。

(ありえる話ですよね?)

その後与吉が温泉を見つけたことで「アグアス(水)カリエンテス(温かい)」という名前へと変わり、いまも町の名前はアグアスカリエンテスだけど、遺跡地の名称に関係なく辺り一帯を「マチュ(古い、長老)ピチュ(山)」と呼んでいる。とう流れ。

¿Cómo un inmigrante japonés llegó a ser el primer alcalde de Machu Picchu?

 

与吉はヤンチャ坊主だったに違いない!
野内さんが日本人に意外と知られていなかった理由は敗戦後の復興と移民を同時にこなした日本の特殊事情に埋もれたように思います。
野内さんのことをもう少し深く知りたくて別の関連本を何冊か購入しましたが、そもそもペルー移住はブラジルのそれと比較しても相対的に情報が少ない。
データを集める目安として1917年から1923年は中南米で活躍した日本人の書籍などから、1923年から1945年はペルーで活躍した日系人手記などから手がかりを見つけるしかなさそうです。
なにせそこに与吉が存在し、多数の人望を集めた人ですから、クスコやマチュピチュをクロスオーバーした著者は絶対に一言「マチュピチュに与吉あり」の文字を残したいと思うはず。
余談ですが「聖母河畔の十六年」も足跡の手かがりを得る本のひとつとして有名ですが、1926年の本でも野内の言及は見当たらず。
さて、与吉の姿はタイトル写真通り晩年の姿が一般的ですが、本書に掲載されている若き日の写真からは何かをしてくれそうな自信のようなものが伝わってきます。私の第六感ですが、彼はかなりヤンチャな人柄に思います。
(奥さんも目鼻立ちがしっかりしたべっぴんさん)

これが若き日の与吉。いやー、なかなかの面構え。この立ち姿。日本人でこういうポーズ、なかなかしないですよね。どうですか?オーラがあるでしょ?この奥様とのお子さんは5人だそうですが長男は2歳で亡くなったそうです。
英語、スペイン語、ケチュア語を操り、日本、アメリカ、ブラジル、ボリビア、ペルーを知り、手先がとても器用で、なにより他人に尽くす、人のために行動する男となればモテたんじゃないかと思いますが、どうでしょう?
22歳でペルーへ渡り、ほんの3ヶ月後には移民契約内容と就労実態に愛想をつかし旅へと出るわけですが、どの本を読んでも最終的にはプエルトマルドナドへ戻ってくることしか書かれていません。そしてその手前にはボリビアのサント・ドミンゴで仕事をしていたとも。
 
サント・ドミンゴってどこ?

そして再びの沼地へダイブ。

先の「ボリビアのサント・ドミンゴで仕事をしていた」という話ですが、今これをペルーで検索するとチチカカ湖東海岸に沿って走る16号線を北上したところに「Santo Domingo」を見つけられますが、過去のペルー移民史でこんな場所にフォーカスしている文は見たことがない。

当然直感的に「ここじゃないな」と思ってしまったのが運のつき。

かつて読んだ「ボリビア移民史」を再びペラペラしていると、岡山県から移住した三輪保の次男が「サント・ドミンゴ(マドーレ・デ・ディオス河)」で農耕に従事」なる文字を発見!

105年以上の歴史を持つ「日本人ボリヴィア移住史」
本日はボリビア移民史の本ですが、改めてこの地域の本を探しても中身の濃い本と出会うことは皆無。それだけ他と比べられない移民事情を感じるのがボリビア。この本は外務省と民間とによる「移住史編纂委員会」によって1970年に発行され...

確かに古い地図データを見ると、かのプエルト・マルドナドとリベラルタとの中間あたりを「Santo Domingo」と呼んでいたようで、もちろんその地域に「Rio Madre de Dios」とありまさしくマドーレ・デ・ディオス川。

川の南側一帯がサント・ドミンゴ…だと思う(仮)。

これで思い出したのが悪魔の鉄道のマデイラ・マモレ鉄道。その鉄道敷設に日本人移民が携わった形跡を探し求め、最後4人の日本人が働いていたオチで終わる本。

奥アマゾンの日系人・ペルー下りと悪魔の鉄道
10月は古本を大量購入して読み漁っていたのですが介護周りが忙しすぎて手にしたどの本も途中まで読んでは止まりを繰り返していました。月が変わり11月になってついに1冊読み終えました。それが「奥アマゾンの日系人」という本。こんな凄い本を残した方がいらしたんですね。

この鉄道は1910年から1912年にかけて少しずつ開通しております。

与吉さんはアメリカにもブラジルへも行き、当然鉄道は知っているはずで、もっと言えばその時点で出身地の福島県にも東北本線は存在し、なんなら到着したカヤオでも鉄道を目にしているはずで驚くに値しませんが、数年の流浪からペルーへ戻り、いきなりペルー鉄道へ就職というのは「そんな素人を雇うものかな?」と思ったのですが、サント・ドミンゴ周辺を徘徊していたとなれば、間違いなくマデイラ・マモレ鉄道もリサーチしていたと想像します。

鬱蒼としたジャングル奥地に作った「枕木一本につき死者一人」の出来栄えを見れば、クスコからマチュピチュへの鉄道敷設なんて楽勝。与吉さんは器用だったらしので、運転すら習わずとも盗み見て理解できた人かもしれません。

採用担当者も「つい先日までボリビアのマデイラ・マモレ鉄道で働いてたよ」とか言われるとハートをワシ掴みですよね。きっと。

それにしても凄くないですか?日露戦争、第一次世界大戦、世界大恐慌、第二次世界大戦…世界のネガティブイベント目白押しの時代に生きてたんですよ。ペルーで。
生ぬるい人生を送っている私は恥ずかしいかぎりです。
 
アンデスの秘境 インカの跡を訪ねて
これだけの情報では不満足なのが移民書籍マニア。
やはりね、日本はかのユダヤ人が迫害された時も日本経由の脱出ルートに「JTBあり」という歴史がありますから、探せば出てくる与吉情報。
ジャパントラベルビューローの月刊誌「旅」(昭和27年6月1日号)に小さな記事が載っているらしくく入手。この記事の寄稿者は画家の「織田寅之助」とあります。詳しいことは存じませんが子々孫々もご活躍の様子。
クスコでは外語出身で、雑貨商を営んでいる大村君夫妻に厄介になって、その案内で附近に点在する、ケンコやピサクの廃墟を初め、昔のままの姿で生活を営む、インカ民の部落を巡り歩いた。
もはや「クスコ」と「マチュピチュ」はセットメニュー。観光のゴールデンルートなので似た記事は探せばもっと出てくると思います。
続く文章に「しかし一番強い印象を受けたのは、今から40年ほど前に偶然発見され、世人の耳目を驚かした秘境、マチュピチュの遺跡であった。」とあります。
心の中で「いいぞいいぞ、与吉、出てこい!」と思いながら読み進めると…
クスコからお粗末な軽便鉄道に揺られながら、狭い山間の渓谷に沿って山を分けいること110粁(キロ)で、終点のマチュピチュの部落に着く。ウルバンバの渓流に臨み、千仭(せんじん)の絶壁に囲まれた貧しい部落で、此の村で只(ただ)一人の日本人野内与吉を案内に、バスで2粁(キロ)ほど走り、渓流に吊り橋の懸かったところで降りる。
名前を見つけ瞬間「おっしゃ!やった」とガッツポーズ。
私の世代も廃止後ですから実物を知らない軽便鉄道。若い方も鉄オタ以外は知らないキーワードですが、簡単に言うと蒸気機関車をハーフサイズにしたもの。だからお粗末なんです。
そして文末はこう締め括られています。
山を下って渓谷に沿い部落に帰った私は、その夜は野内君経営のホテルに泊まった。同君は福島県人でアマゾンの源流地帯で、砂金堀りをやっていたが、遺跡が発見され、軽便鉄道が通じるようになってからは此の部落に落ち着き、インカ婦人と家庭を持っている愉快な男である。翌る朝、霧の中を細い谷間を半道程登って、野内君の作った温泉に入る。夏とは云え三千米(メートル)の山風は湯上がりの肌に、快よく意外の風趣(ふうしゅ)をそえてくれるのであった。
文脈からしてペルー帰国前の与吉はボリビアのサント・ドミンゴ周辺で職業ガリンペイロ。
フーバーアーカイブにそれっぽい情報がないか検索したら1940年8月25日のリマ日報に政府が「砂金採掘総務局を新設」とあったので、その手前に行動した与吉の嗅覚グッジョブです。

1940年8月25日 リマ日報「1億の国債を起し公共事業を継続」より

この採掘船に関するデータもいくつか残っていますが、当時あのマドーレ・デ・ディオス川に3千とも4千ともいわれる船が押し寄せて砂金堀をしていたと言うと「またそんな大ホラを」と言われそうですが、なにせ全長650キロ(東京から広島の距離)という大河ですから、さもありなん。
ウィキペディアにも次のようにあります。「アマゾン川には、支流では最大の流量・流域面積を持つマデイラ川と、次いでタパジョース川やシングー川やトカンティンス川などの大きな河川が南側から合流しながら河口まで続く」。
 
ペルー日系人の20世紀 100の人生 100の肖像
ことのついでに購入した本。文字通り100人の日系人にフォーカスした本ですが、以前にメモしたパラグアイ移住者(20の人生)の方が編集内容は濃いです。
日本がバブル経済崩壊後の下り坂を転げ落ち、水面ギリギリの1999年発行。惜しむらくはあと10年記録が早かったら1世の声をより多く残せたことは間違いありません。
本書に載る1世の声もやはり重いものばかりです。
この本をペラペラとめくりながら84ページに「ホセ・ノウチ・ポルティーニョ(クスコ県マチュピチュ出身)」が紹介されています。(そしてクスコで「SHIRAYUKI」というアイスクリーム店を営む河村道香の2世(1961生)ストーリーも載っています。) 右側の腰をかがめたおじさん。先に紹介した夫婦写真の真ん中に写る子か?それとも別か?本書取材時年齢は66歳。
すべては書きませんがこんなことが…
ホセは父の与吉からは、ブラジルからプエルト・マルドナード地方を経由して、1932年にクスコに入ったと教えられている。…父・与吉は、やがて木材の輸出に手を染め、傍らマチュピチュに木造のホテルを自力で建設し云々。
この文章が本人談そのままであった場合、まず「プエルト・マルドナード地方を経由」ということは「アリコマ峠への上りルート」になりそうです。
そして「手を染め」という表現を前向き、後ろ向きのどちらに捉えるかで解釈が分かれるところですが、いずれにしても私の予想は「与吉はガリンペイロでいくばくかの資力を蓄えてマチュピチュへ戻り、材木なんていくらでもあるとはいえ、わらしべ長者な展開で(砂)金を投資し、ホテルへと化けさせたのでは?」と想像していました。
ひとつ謎なポイントはアメリカに登場したのはいつか?です。娘さんの言葉にもアメリカはない。アメリカは見聞を広げるための(船)旅か?ホラ吹き伝説か?
娘のルス・マリーナさんの保持する記録や記憶にもとづく証言によると、与吉さんは、リマからすぐにボリビアへ渡り、そこからブラジルへ、そしてまたペルーに戻ってアマゾン地域南東部のプエルト・マルドナードで働いたという(ここでオスカルという名で洗礼を受ける)。そして最後にようやくたどり着いたのがクスコだった。
娘さんの話から推察すると「ペルー→ボリビア→ブラジル→アメリカ→ブラジル→ボリビア→ペルー」が妥当ですが、果たして真相は?
1924年の地図を眺めるとブラジルからアメリカへはニューヨーク往来が一般的なルートのようで仮に渡米していたとして当時サントス港からニューヨークへの客船は「ナビガシオン」「ホーランドアメリカ」「ハンブルグアメリカ」の3路線が有名だったそうで…。
それ以外にもボストン、マイアミ、ニューオリンズ航路の「コスターライン」「ロイド・ブラジレイロ」「ナショナル・ライン」「ロイド・サンパウロ」「ブリティッシュ・インド・スチーム・ナビゲーション・カンパニー」などなど…。
いやいや「リオやサンパウロじゃなくて、サルバドルやレシフェから貨物船で移動?」と考えだすと気になって仕方ない。

眺めているだけてお腹いっぱいになる

「3等部屋で食費も切り詰めれば移動は出来ただろうけど2-3週間かけてNYに降り立って、さぁどうしたものか?」とか「まさか客ではなく船員か?」とか「でもアメリカも大戦後で特需は終わっており…」とか「話はペルーからボリビア&ブラジル経由アメリカだとしたら、アメリカ到着まで最短でも片道2ヶ月ぐらいはかかるだろうし、途中バイトしながら1年ぐらいかけて放浪移動か?」と妄想が尽きません。
ちなみに息子であるホセも親ゆずりか副知事の仕事をされたそうですが、晩年はマチュピチュでレストラン経営されていたらしいです。
たまたま手元にあった雑誌をめくっていると、そこにAIKO(愛子)という日本人の名前が書いてあったので、その名前をもらうことにしました。後になって、日本人の旅行者に「愛の子供」という意味だと教えてもらいましたが、そのときはどんな意味か知りませんでした。
ということで、たまたま手元にあった「地球の歩き方 ぺルー」をめくっていると…
 
壊れかった玄関から「オオ、ハポネッス!」
どうにも消化不良で、もう少し与吉情報が欲しいのに出てこない。かくなる上は天野芳太郎の本に頼るしかないと思い入手したのが「天界航路」。
さすがにこの本には記録が残っているとは思っていたものの天野芳太郎に対するアンテナ感度が悪かったので入手が後回しでしたが、その感度の低さはまさしく私の人生そのもので、後にアンテナ感度がビンビンに反応した。
この本の詳細は改めるとして、やはり記録が残っていた。
さすがに全部を引用しきれませんがザックリした流れは…
やがて汽車はあえぐようにしながら海抜3千メートルの古都クスコへ入った。インカ時代の遺跡とスペイン侵略のあとをとどめる、考古学や歴史を愛好する者には垂涎の都だが、天野はマチュ・ピチュ登頂を優先させた。早朝クスコを発った軽便鉄道は山ひだをジグザグにぬいながら二時間半かけてウルバンバ川沿いに進んだ。…中略…やがて列車は現在のマチュ・ピチュ駅の一つ手前の終点で止まった
行ったことがある人も、これから行く人も頭の中でこの情景が思い浮かびますよね。興味深い点は終点一つ手前の駅で止まったということ。
現代では「Compuerta駅」がそれに相当しそうで、やぶこぎしながら現終点駅まで約5キロの道を踏破するイメージも湧きますが、その「Compuerta駅」が当時もあったかは不明。最近の投稿には「旧アグアス・カリエンテス駅」という記載も多く駅が延伸されたの?
この部分はペルーの古い鉄道地図を眺める必要があるので今回はパスしますが、「レイルパスドットコム」というサイトのペルーを見るとおびただしい数の鉄道情報が出てきます。
おそらく軽便鉄道やさとうきび列車の類と推測しますが、地震や戦争で消失というものが多々。1900年頃あちこちに鉄道が敷かれていたことを知るとペルー文化にも興味が湧いてきます。
続けます。
駅前には一軒の旅宿があった。それはいかにも草深い田舎屋だったが、天野はここで旅装をとくことにした。…中略…この廃屋のような木賃宿は彼にはまたとない宿となった。
言葉のチョイスが印象的すぎます。
おそらくほとんどの日本人は与吉ホテルがそこそこの客室数を持ったログハウスのようなイメージでしょうが、実際は木賃宿であったそうですょ。しかも廃屋ですって。
昭和5-60年代の文章で表現される木賃宿は比喩や揶揄の表現として使われることが多いですが、この文章の木賃宿はガチの木賃宿でしょうね。与吉さんは明治生まれの大正育ちですから、江戸情報のペルー版木賃宿とすれば本当に質素なもの。今では素泊まりに相当しますがペルーでは板間すらが珍しい時代ですから…色々なことを思い巡らしますね。
野内与吉の話をたどるとかならず出てくるのが下の写真。中央奥が噂の木造建築ホテル。この立派なホテルと「木賃宿」が連動しませんが一旦このまま話を進めます。
建物2階?に窓が見えます。バルコニーもありそうです。1階右側はテラスか?3段の階段。建物中央の黒い棒の上には3つか4つ白い物が見えます。もしかすると碍子かもしれないですね。なんとなく10時方向に向けて電線が通っているように見えます。
野内は水力発電も作ったことで知られていますから電気が通ったことで集落が一気に村へと活気づくのも分かる気がします。
(明かりがあるところに虫も寄ってくる)
右側には線路が二手に分かれ、左側はホームでしようか?終着駅型に車両が1台止まってるようにも見えます。全体的に断崖ギリギリの設計に見えますが実際は草木が鬱蒼としているのかもしれません。そしてなによりも不思議な感覚は人の多さ。40名以上は写り込んでいます。
山奥の終点駅のような場所にしては活気を感じます。
ここでやってはいけないことをやってしまった。カラー化。一気に臨場感が増します。
ウルバンバ川が見えませんから現代の構図と違いおそらく現行駅より手前位置と想像。こんな山奥でも全員整った服装。ほとんど長袖なのに、手前の1人だけ半袖。
基本的に気温が低い場所ですから春から夏にかけての日中に撮られたものでしょうね。標高1,800メートルの駅前広場といった感じでしょうか。ここを天野さんも歩いたと思うと…だからこの手の本はやめられない。
それにしてもAIカラー化おそるべし。ちょっと色がつくだけでこの生々しさ。これがまさしくマキナチャヨそのもの。ホテルができる前は機械やキャンプ道具が置かれ、テント場としても使われていたんじゃないかと思います。
どうしても「移民、貧しい、質素」という視点で見てしまうのですが、現場はあんがい和気あいあいと楽しくやっていたのかもしれません。
本書によると同時代の「インカ帝国と日本人」という本にもこの宿について書かれているそうで、そのくだりが一部紹介されています。
この元ネタもフーバーのアーカイブで一部を読むことができます。マチュピチュで検索すればすぐ見つけられます。

1947年6月 伯剌西爾日報

当時の新聞は私の好奇心を大いに刺激しくれます。とにかくおもしろい。
南米から見た日本、日本人コミュニティの規模や問題、家出人探しや土地売買広告など普段「日本に住む日本人」である私の軸足がいつのまにか没頭して「南米に移住した日本人」にすり替わる感覚が奇妙です。
いまは情報がありすぎて脳みそがバカになっていることがよく分かります。
これだけ海外情報が溢れても見ようとしない現代日本人と比較し、当時はたったこれだけの情報量からしか推察できないのによくもまぁ世界情勢を網羅してること。
その「インカ帝国と日本人」にはこんな紹介文があります。
此村の村長がたった一人ここにいる日本人であることが不思議である。福島県人の野内といふ人で、インカの後裔といふ女性を妻にして村長兼ホテル経営者で無論部落唯一のホテルである。室は五指で数へ得る程しかない。(けれどかゝるアンデス僻遠の地に日本人経営のホテルがあるといふ事は非常な歓喜を覚える。早速其所に投じて主人と共に故國の事どもを語り合わした。)
なななんと、ホテルは初めから豪華なものではなく、最初は片手で数えられるほど、たった5室の木賃宿からスタートしていたそうです。
話を天界航路へ戻し、天野と野内の最初の出会いが書かれています。
「オオ、ハポネッス!」と大きな声を張り上げて一人の男が入ってきた。天野は言葉ももどかしく訊ねた。「君は日本人か?」「そういう君も日本人か?」それまでスペイン語で話あっていた二人は、この時日本語で挨拶を交わした。聞くと彼は移民としてペルーに渡り、落ちぶれ落ちぶれて、ついにこんな山奥に辿りついたのだという。彼は野内と名乗った。
こんな感じで話は続き、この滞在中に野内も天野に同行してマチュピチュを訪れるわけですが、皆様この紹介文をどう捉えます?私は半分本当で半分冗談にとらえました。
「落ちぶれて落ちぶれて」というリフレインが印象的。
本当に苦労もあっただろうし、「木賃宿」なんて書かれ様ですから落ちぶれた雰囲気であったことでしょうが、のちに立派な木造ホテルを作るわけで、互いに若干の謙遜とジョークを交えた会話だろと想像します。
計算すると、おそらくこのとき野内40歳、天野37歳。
(もしや与吉のパトロンに天野ということもチラッと思ってみたり)
どちらも破天荒な人生で、言葉を失うとはこのことですね。40歳の苦労人と37歳の富豪がペルーの山奥でなにしとんねん!って思います。
人生時間が濃すぎて…ついていけない…。

ネットにはディスカバーニッケイによる天野婦人のインタビューが残っており、そこにも野内与吉とおぼしき人物の話が残されています。

いずれにせよ、少しだけパズルのピースが埋まりました。
与吉はボリビアでガリンペイロも経験、ペルーに戻ってからはマチュピチュ麓に客室5室程度の廃屋のような木賃宿から始め、鉄道会社で働いたコネで線路(鉄)を入手し、木材輸出業に乗じて得た材木を使い、後に本格的な21室のホテル建設でしょうね。
ホテルなんて建ってしまえばなんてことない話ですが、まだ概念の乏しい山奥で事をやらかすには問題を解決できる知識も必要で、そう考えると確かにマチュピチュ村の祖ですよね。
そしてね、建物「1階を交番や郵便局として無償貸与、2階も村長室や裁判所に提供」についても、そう言われると「へー、すごいねー」な話ですが、どことなく「日本男児たるものこうあるべき」という利他な日本人像も感じます。
もっと調べられますが、止まらなくなるので一旦ここで終了。
 
余談:映画「アンデスを越えて」

さて、ずいぶん話があちこちへそれましたが、最後にいつもの余談ですが…

1958年6月公開の「アンデスを越えて 南米の日本人たち」という映画が妙に気になります。撮影は佐伯啓三郎、音楽は服部良一、ナレーションは宇野重吉だそうです。

手前のおじいちゃんが宇野重吉(親)、奥のヒゲボンが寺尾聰(子)。

男はつらいよ 第17作 寅次郎夕焼け小焼け(昭和51年7月 公開)

昭和30年代は移民の様子を伝える、今風に言えば百貨店の催事でワンパターンの「北海道物産展」みたいなことが各地で行われていた時期ですし、こういった提灯映画で国民を移民へと煽っていたことが予想されます。(私の勝手な妄想)

当時のチラシやポスターを見ると、「もしやこの景色、街並みの雰囲気はクスコじゃね?」と思います。ロケしてるんですかね?

映画宣伝の説明書きを読むかぎり、マチュピチュが映っていれば間違いなく野内さんがコーディネートしてるでしょうね。なんなら映像内に映り込んでるんじゃないかと想像します。

どう検索しても情報がない。フイルムの存在も不明。誰か映画関係者、歴史的資料画像を発掘してくれ。私にとってはマチュピチュ遺跡より日系人に興味がある。

せめて服部良一さんの譜面は残っているでしょうから、その曲だけでも聴いてみたいです。

「日本の3.3倍ほどの面積と1千万の人口をもつペルー。この国には現在約5万の日系人がいて、ブラジルにつぐ南米第二の移住者人口である。明治32年、最初の移住者が入国してから約60年の年月が過ぎた。ペルーの首都はリマ。太陽の帝国インカを滅ぼしたスペイン人の建設した町で、邦字新聞も発行され、二世三世のための学校や施設もある。インカやプレ・インカ(インカ前期)の遺跡はアンデス山中の古都クスコを中心に散在する。中でもマチュピッチュの壮大なインカ遺跡や、チチカカ湖の景観がすばらしい。」

ということで本日のメモは野内与吉さんでしたが、私の印象はいわゆる出稼ぎ移民ではなく、やんちゃ坊主の大冒険に感じました。彼の出自は超ビンボー家庭ではなかったことから人生で移民の選択肢は不要のはずなのに親の大反対を押し切って出かけちゃうわけですが、語学もそれなりに使いこなしていたとなれば「独り商社」な人生を築けたのも納得です。

また叔父さんの話によると、与吉さんはペルーに移住する必要はなかったと言う。ペルー移住を選択したのは、知らない世界を知りたいという与吉さんの好奇心と冒険心からだった。

色々と調べるうちに与吉さんがワクワクした人生を選んだことは想像できました。

与吉さんに限らず、以前に読んだ島袋盛徳や伊芸銀勇の話は教育者としての視点が随所に感じられ、その方々も移住してまで2世教育に取り組む必要はない人生だったと思いますが、その方々のお陰でいまの5世、6世があるとも言えます。

つまり、本当に初期の移民は完全に出稼ぎ色、棄民色の強いものですが、日本が戦争に明け暮れる時代へと進むほど、冒険心での海外移住者も増えた、その一人が与吉さんでしょうね。

戦争ばっかりの日々に嫌気がさして出国した人もいそうですが、いまとなっては確認できません。日本社会や世界情勢にカオスを感じ取ると、大和民族は外を目指す習性なのか?

ペルーで大家族を持つ与吉さんは、日本に行くことは経済的にほぼ不可能だった。はじめの結婚でマリア・ポルティージョさんと5人の子供をもうけ、2回目のマリア・モラレスさんとの結婚では5人、男の子3人、女の子2人を授かった。その一人が末っ子のルス・マリーナさんである。…目立つことを避け、とても質素で謙虚な父…

与吉の行動から感じたことは、海外へ出かける以前の話として「自分の頭で考えて行動するクセをつけておかないと現地で時間を浪費し、どこかで立ち止まる時間が必要」ということです。与吉は言葉が達者だったので考えながら常に動き続けることができた超人ですね。

逆を言えば、人生は立ち止まって学ぶ時間も必要、ということでしょうね。大した人生です。

その後再婚した与吉は5人の子を授かったとなれば1人若くに亡くしていたので2世は9人。

そこから枝分かれすると野内一族は静かに脈々と血がつながっています。少子化といわれて久しい日本ですが詰まるところ、自然に生きれば子どもは増え、不自然に生きると減る。そんなことも考えていました。

(この「血がつながってる」という書き方が日本人的血統思考)

以上、世界遺産マチュピチュに村を創った日本人「野内与吉」物語でした。

〜・〜・〜

今回入手しなかったけれど読んでみたいと思ったその他の書籍。与吉のアメリカ移動を探るべく1917-1920年辺りのブラジル移住者本も読みたいが、目星をつける暇もなし。

  • 『インカ帝国と日本人』(福中又次著、冨山房、1940年)
  • 『ペルーの日本人社会』(大澤真幸著、未來社、1977年) 
  • 『運命のわだち – 南米日系人三世の挑戦』(齊藤安弘著、みすず書房、1993年)
  • 『南米の日本人 – 越える闇、照らす夢』(中西正男著、未来社、1997年)
  • 『海外移民ネットワークの研究』(赤木妙子著、芙蓉書房出版、2000年)
  • 『ペルーにて』(菅原彰著、彩流社、2010年)
https://andina.pe/ingles/noticia.aspx?id=684742
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