介護(人の死)もまたビジネス

介護
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今年も終わりますね。

残したいメモはいろいろとあるのですが、誰かに役立つオピニオンを書き残す場所ではないので思いつきで介護ネタを1つ。

つい先日実家の向かいに新しい家が建ちましてね、暮れに引っ越し挨拶にお越しの若夫婦とお子様2人。戸建てに幼児2人で車が2台ですから共働きだと思いますがこの時代によく頑張っておられるなぁと感心しておりました。

(元凶の私がメモるのもアレですが)

というのも、この国の30年後は「現役世代1.3人で、高齢者1人を支える」時代になると言われてますからお向かいのご夫婦を「大したもんだなぁ」なんて思うわけです。

(2050年ごろのお話し)

このデータは少し古いですし、コロナ禍を加味するとその時期は早まるでしょうし現役世代の分母縮小の加速も想像容易。このまま無子化が長引くと「現役世代1人で、高齢者2人を支える」ことが起こるかどうかはいざ知らず、いま私が置かれている状況というのがリアルに「現役世代の私が1人で、高齢者の両親2人を支える」状態になっております。

(ぶっちゃけ毎日全力でなんとか凌げてる感じ。もう中老だしね)

それはそれは大変なことになっておりますが、親の容態が安定しているので成り立っております。

しかし以前に以下サイトをメモりましたが…

介護サービス市場を正しく理解するための“悪魔の計算”
今回は、寿命と介護について、恐らくは“世界初”となるであろう「悪魔の計算」を試みました。この計算結果を見て、あなたはどう思いますか?そして私が見いだした、「働き方改革」を行う本当の理由とは……?

金融資本主義下で1人が2人を支えるというのは完全に大事故です。

介護に絡むGDPは自ずと上がるのですが、それとて「①皆保険制度が維持される、②介護される人にある程度の預貯金がある、③介護する側にもある程度の預貯金がある」ことが大前提。あとはいつ来るのか分からぬ親の死亡日との我慢比べ。

自分でやってみて思うことは「現役世代1人で、高齢者1人を支えることは可能」ですが、これも現役世代の犠牲や負担がかなり大きい。この「可能」の意味は常に動き続けることが前提。

(つまり「1人で2人支える」というのがいかに異常事態かは推して知るべし)

 

でね、今日のメモのポイントですが現役世代が介護沼にはまるとミッシングワーカーとかになるわけですが、それを他人はあっさり「働けばいいじゃん」と言うわけです。ですが社会環境はそーなっとらんと申しますか、全てが「経済中心」による不都合を随所に感じます。

支えるべき相手にもよりますが、要介護度3〜5が1人いるだけで大変でございます。全てが経済中心ですから親を福祉施設に放り込むなり、デイサービス・デイケアへ行ってもらうなりしないと現役世代の経済活動なんて無理ゲーです。

たまーに「現役世代5人で、高齢者20人を支えることは可能」みたいなことを言うアホがいますが、介護がなんたるかを分かってない戯言。

そして国は「金も人も足りんからそれぞれ自宅で面倒みろよー」となってるわけです。

(居宅介護ね)

もうね、私なんて超レアケース。

自分の会社だから全時間自分采配だし、元からリモートワークな仕事だから頑張れてるだけで、収入に関係なくサラリーマンだと即破綻しておかしくないと思います。

でね、なんでそーゆー沼にハマるか考えていたのですが、結論は最も避けるべきスパイラルにハマるせいですな。間違いない。

要介護度によって取るべき作戦が変わってきますが、介護はある日突然やってくるので作戦をミスることもあります。初動が大事ですが介護する側の頭は秒で「施設入所」が頭をよぎり「自分が介護する」ことは二の次。経済社会下では頭がそうしか機能しなくなってることに気づけるのは介護が数年続いた後ですが、まさしく後の祭。

(施設を選ぶと金がかかり、自宅を選ぶと家族の誰かに負担がのしかかる)

要介護度と資産状況によっては家族が介護した方が全体メリットが大きい場合もあると思いますが壊れゆく親の姿、介護全体で必要なお金、自分の人生、嫁さんや子どものこと、自身の経済活動などの優先順位の付け方で全てが変わります。

(命と経済活動を天秤にかけることに無理がある)

 

さて、デジタル時代は社会変化が早いから適応能力の高い人が生き残れるわけですが、その代謝を早めるには一般的に3つの変化をタイミングよく掴む必要があるわけです。

  1. 場所を変える
  2. 人を変える
  3. やってることを変える

たったこれだけ。平時では決断次第で即可能なことばかり。

しかし介護が始まるとこれが全て固定されます。そして現役世代の化石化が早まるのですよ。

  1. 実家に入り浸り
  2. 24時間老いゆく要介護の親を相手に
  3. 日々是介護

身動きが取れません。

(この状況で多動力発揮できる人はちょっと稀なる背景があってこそ成せる技かと)

介護は「家でしろ」と誘導する国家観であったり「デイサービス歓迎」という経済軸に乗ると、もはや家族という概念は希薄の極みです。一見家族寄りに見えて実態はリバース。病に倒れて動けなくなったら福祉施設と病院送りにしないと現役世代が全く立ち行かないわけですよ。事実そーゆー社会構造。

(みんな「老後なんてそんなもんでしょ」って感じ?)

倒れたら病院送りで、本人希望に関係なくデイサービスやデイケア送りを常識と捉えて「全て自分の生活のために仕事という名の経済優先」ってドライ思考であれば問題ないけど、事は生身の人間で自分を産んでくれた親となれば穏やかではない話になるかと思います。

(ぼちぼちこれを非常識にする時期ではと思う次第)

国も「年金は破綻しない」って言いますが、貰える額を減らさずに語ってほしいよね。

私も自分の親を福祉施設へ送り出す日々ですが、Nスペでも話題になった長谷川式認知症スケールを作ったご本人がデイサービスを拒絶するシーンは記憶に残っています。とても印象的。「介護する家族のため」という思考の原点となる要素がやっぱり経済(つまりお金)なんですな。

(私の親もよく言いますよ。「行っても疲れるだけで楽しくない」と)

健康な生活で楽しくない場所へ行く人なんて誰一人いないよね。それが介護になると生みの親でも施設へ放り出して「楽しくなくても生活できんから行け」みたいなことってどーなんですかね。

(人間の工業製品扱い)

別に信心深いわけではないけど因果応報なんでしょーね。

ここが本質的に改善されたときが人口増加への転換入口だと思いますが、現実は人口が底を打つまで減りまくってからのリバースでしょうね。

以上「介護はたいへーん」のメモでした。

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