珍しく2回連投の介護ネタですが…その前に我が親のワクチン接種について。
5月の3週目、両親宛にワクチン接種のお知らせが届きました。もう高齢ですから副反応が許容できれば接種もよかろうと思い尋ねると、息子の誘導トーク一切なしに本人たちの意思で「接種する」というので病院へ連れて行き1回目を終了。母親は元気に過ごし、父親は接種した腕の痛みと軽い倦怠感で翌日丸一日寝込みましたが、翌々日は復調。
接種は強制ではなく自由なので50の私は今すぐ打ちたいと思いません。良くも悪くもいずれ落ち着く日がやってきた時「海外渡航に必要であれば打つかなー」程度です。
世界は「ワクチンパスポート」なるもっともらしい名称で人的交流を加速させたいようですがワクチンは打っても打たなくても罹患する人はするし、しない人はしない。特に今は変異株対応に後手。予防医学というのは根気が要りますな。今後いくらでもブースター接種に追われることを思うと「検証期間の浅い遺伝子情報を何回打ったら終わんねん」といった印象。インフルエンザワクチンでも毎年打ちませんから。
ぶっちゃけ今回のワクチン接種はロシアンルーレットのような印象がありまして、普段は健康でも接種日にたまたま免疫力が低くてアウトという人もあれば、例えば世界を放浪していろんな免疫を獲得し免疫力の高い状態をキープできている高齢者もあるでしょうし、自分の心に従って(一応身体の自由度低いであろう高齢者から)どんどん打てば相対的に国家レベルでジワジワ免疫獲得が進み、感染が少しずつ収まるというストーリーが理想だと勝手に妄想しております。
他方で薬害というのは5年、10年と長い年月を経ながらジワジワ現れますし、司法史は「因果関係を立証できない」の一言で苦しんでいる人、訴訟の多さを知るにつけ若者こそ気をつけるべきに感じますが、余ったワクチンを高校生に接種で「ありがたい」とかやってるよーなので「無事を祈る」みたいなことです。
我が親はポンコツに日々磨きをかけている最中なので薬の量も多いですし、やはり接種後の「発熱、痛み、頭痛、倦怠感」など心配でした。そんな折に母親の認知症が急加速気味なのでブックマーク封印していた【認知症からの贈り物 信友直子】を読んだのですが、生々しすぎて朝から涙が止まりませんでした。号泣級。
身内のように信友文子さんの死が悲しい
ご存知「ぼけますから、よろしくお願いします。」のお母さんが脳梗塞で倒れ、昨年お亡くなりになったことは知っておりましたが、その後の情報は持っておりませんでした。というか、ある程度展開を想像できたので接触封印していました。
脳梗塞というのもやっかいな病気で、仮に一命をとりとめてもそこから何十年も生きることは稀な話で殆どが10年以下で収まる余命。その日は突如やってくるので大変なんですよね。
(この監督の連載記事が中国新聞に【認知症からの贈り物 信友直子】として続いております)
介護は、親が命がけでしてくれる最後の子育て
この連載記事の「母文子さん死去に寄せて 老いるとは・死にゆくとは…教えてくれた」という寄稿にこの一節が載っております。
この名言は出自不明ながら約10年前からネット界隈では有名な言葉らしいのですが、私は今回初めて知りました。一説には水どうの曲でもお馴染み樋口了一さん発の名言という文字も目にしましたが、かの有名な「手紙」をリリースされているだけあって、さもありなん。
この言葉は刺さりますな。心にグサグサ刺さる。
ある日突如舞い降りる介護を「させられる」ではなく「させてもらえる」と捉え、(子)育てのゴールが(親の)死ですから、まさしく原理原則。
しかしまぁ介護というのはカチンとくるわけですょ。ほんとに。
私の性格は大らかというかパープリンというか、小さなことはあまり気にしないタイプなんですが介護は不衛生な生活シーンが増え、その掃除を繰り返す要素が満載。
食べこぼしや排便排尿の失敗などは最たる例ですが…
これを「最後の子育て」で括られますと息子としては息の根を止められたも同然。
まだ弄便(ろうべん)は未経験ですが、これを経験された方の鍛えられ方たるや想像を絶しますな。それも「最後の子育て」なんですぞ。
しかしなんで「カチン」とくるか考えていたのですが、おそらくは「今まで出来ていたことが突如出来なくなった」ことは稀で「今まで出来ていたことが徐々に出来なくなった」ことが多いので、介護してる身内は変遷に気づきにくいせいじゃないかと思います。気付きにくいのでついイラっとする。介護経験者アルアルでしょ。
この変遷ポイントで介護のプロから「今出来なくなってる最中ですよ」とアドバイスされて初めて介護してる身内もハッとするタイミングだろうと妄想。そこで衰えが理解できるとデータが「いま自分の親は絶賛崩壊中」に上書きアップデートされカチンが減りました。私の場合は。
訪問介護(看護)事業者を変更して感ずる経営者の怠慢
つい先日事業者変更しましてね。
なんで変更したかというと会社としての誠実さが感じられず、訪問看護日を「明日どーですか」みたいなことが4-5回続いたので変えました。なにせ息子は「かかりつけ医、耳鼻科、泌尿器科、整形外科」など調整すべき日時が多く前日の調整は無理。
温厚な私もスパっと契約解除。
変えても事業者は「高齢者はこれからどんどん増える。1人や2人契約が切れてもどーってことない」て感じだと思います。それを感じて変えたわけですが、その事業者は実家から徒歩圏内の安心感があったにも関わらず結果は不安で契約解除。サイト更新も放ったらかし。
新たに契約した会社は実家から少し離れますが「24時間いつでも飛んできます。躊躇せず携帯電話にかけてください」という言動に安心しましたし、サイトも頻繁に更新。もうそういう時代ですよね。自社サイト放置とか有り得へんし。
ローカルは都会と違って緊張感が希薄。いわゆる「なーなー」です。新しい事業者は「同じことの繰り返しになることも多いですが、もういちどお金周りから介護まで見直せる点がないかチェックします」といってくれありがたいことです。
ぶっちゃけ変更手続きは私も面倒臭いのですが今回はやってよかったかなーと思います。介護は受ける当人にとって人生で一度きりの処遇にもかかわらず文句を言えない身体衰退中のこと。これぐらいは家族がしっかりしないとね。
介護にイラっとした時に心の平静を保つ私の方法
本日の記事をアップするにあたり、そのタイトル写真をどこかから引っ張ってくる必要があるのでフォルダを探していました。まぁ元々カメラを回すのが仕事でしたから色々なデータが発掘できますが、その中には両親の写真もあります。
こそには元気な姿、病気の姿、闘病の姿、回復中の姿の両親がいます。
どうしても介護は「今」が優先して心にゆとりがなくなるのですが少し時間をさかのぼり、今よりは少し前の元気な頃の写真を眺めると一瞬で心が平静を取り戻します。
なぜならその当時よりは確実に弱っている親がいま目の前におり、その衰え具合を理解していなかった自分の心が恥ずかしくなり、悲しくなり、襟を正さねばと感じるせいですかね。自分の未熟さに不覚にも涙が出ることも多々です。スティーブ・ジョブズのそれじゃないけど人間は間違いなく1日1日確実に死に向かって生きてることを叩き込まれます。
まさしく「介護は、親が命懸けでしてくれる最後の子育て」なんですな。
いやぁ、今も文字を打ちながら涙が出てきた。自分の心が慢心で傲慢というのがよくわかり情けない限りです。こうして人間は一生を終えるんですな。
あくまでも私の場合。
後悔しない介護とは何なのかを模索の日々
しかしまぁ人間って不思議ですよね。食物連鎖の頂点に君臨してるわりに「介護」なんてことをする動物なんですよね。どーせ死ぬのに。他の生物で介護生活がある生き物っているんですかね。
ところで最近のMyテーマなんですが、後悔しない介護。
人が1人として同じでないように介護も無限パターン。なのでデイサービスだのショートステイだのといった箱詰め介護サービスが何ら間違っておらず正しい雰囲気で進む介護事情も怪しいものだと思っておりますが、なにはともあれ壊れゆく親も(たぶん)想定外の壊れ方に対する自覚不足、不安、そして不安すらない認知へ向かっております。
そうなると介護する側は1つでも多く願いを叶えることぐらいしかできません。
これは今年私がやらかしてる両親向けの食事の数々ですが、まだ幾らでも写真がございます。
まぁ「やれるとこまでやってみよう」ということで暫くはハッスル予定ですが、なぜに神は独身・子ナシにここまでの試練を与えるんですかね。たぶん私の人生に必要なんでしょうね。
以上「介護とは忍耐の修行」メモでした。
介護は、親が命がけでしてくれる最後の子育て
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