人生は無駄か? 河は眠らない。

ありがたい一冊
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Gigazinさんの「人体から新たな「臓器」が見つかる」という見出しに驚きました。人間は自分のことを理解できません。その気になっているだけです。存在は認知しているのに機能を知らない。しかも1世紀。腸間膜も意味があるから存在しているでしょうし…とか思う今日この頃です。

さてと…

今年は内容をプライベートにも引きずり込み、更新も増やしたいと思っています。

タイトルは私がググった文字です。年齢に関係なく「わたしの人生って無駄なんじゃない」と感じたことがある人も多そうで安心しました。この無駄というのは何かを得た後に無駄と思って手放す(断捨離)とは違うニュアンスで、自分という存在そのものが無駄という感覚。

反抗期のころに愛のない「産んでくれて迷惑だっ」と言い放つのとにた感覚です。「私って(生きてる)意味あるの?なんで生きてるの?」みたいなことです。

ネットの意見を眺めていると結論は「無駄じゃない」とか「無駄と思うなら無駄なことをするな」という答えに辿り着くのですが人間は個性の塊ですしそれぞれに受け止め方が異なり「私は気付くのが遅かった」と嘆く方も。嘆く理由は「時間は有限」という概念に縛られるからでしょうね。

だから以前にも触れたドリュー・ヒューストンの動画に感心します。かなりの高確率で誘導される動画がジョブズのスピーチだったりします。

どちらも伝説のスピーチではありますが、どちらを見ても自分の年齢と比較して「遅すぎた」とか「私には無理」というオチが多いと思います。私自身もこういう内容に何度も触れているということは「しょっちゅう人生って無駄?」と思ってることになります。

世界を変えた人の動画や言葉に触れて「そうだよなー」って思うのに腑に落ちていないから何度も検索するのですが、私は開高健の言葉で気持ちが落ち着きました。58歳で亡なりもう少しで没後30年です。

それは伝説のスピーチの方々の講釈よりもスケールが大きく極めてシンプルな表現。

私が感じる開高健は波乱万丈で豪快。太く短い人生ですが後悔しない生き方に思えます。

その開高健が「河は眠らない」という本(番組化やDVD化から書籍化だと思いますが)でいろんなことが見えてくるのは35歳以後ぐらいからじゃないかな」と述べています。

この中で倒木(nurse log)について触れています。山歩きすればどこにでも転がっていますがそれには意味があることをシンプルに説明しています。

無駄を恐れてはいけないし、無駄を軽蔑してはいけない

私がどんな伝説のスピーチよりも「人生に無駄はない」ということを理解しやすかったのは、開高健の解説が自然の摂理だからでしょうね。人間の既成概念を超えた説明も素晴らしいのですが、そんなことは自然界にゴロゴロ転がっていて、そこに触れれば誰だって学べるということを一瞬で理解させてくれるものでした。

毎日鉄筋コンクリートの箱で働き、生活し、買物をし、映画を見て、食事をして、寝て。更にそれぞれのシーンで手元の携帯の中の通信で他人とつながる。限りなく自然から離れ続けている人ほど「人生 無駄」とか検索するはずです。

(それが私)

でもIoTとか言って、これなしでは生活が成り立たない時代。特に都会は。

そう考えると都会人ほど一度躓くと(自然から遠いという意味で)「これって無駄?」と感じる回数が増える気もします。都会は目移りすることが多いので麻痺して気づけませんが、それは都会が持つ活気のおかげ。活気がなくなり衰退するとモルヒネが切れて辛いでしょうね。

今年は自然に触れることを増やしたいと思っています。

だからといって自分自身の存在感とか必要度を実感した生き方というのも難しいですよね。

私が今吸っている空気はアマゾンのジャングルとかフィンランドの森で作られた一部かもしれませんが、その場所も形も知りません。絶対に必要だけど知らない。無駄はないけれど実感もしにくいので何度も考えるのかもしれません。逆も然り。私という存在も知られにくいということです。

私はそんな時、かなりの高確率で旅に出たり自然に触れることをするのですが、その対象物にかならず「魚、昆虫、花」を感じる場所を選ぶようにしています。本当は動物を身近に感じたいところですが人工ペットを飼う気にもなれず…。同じ地球の生き物として何ら違いがないことを注射して社会復帰を繰り返す人生。

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