4月初旬にペルーのクスコ移住者情報探しから色々な本を読み返したり、新たに買ったり。
でね、移民系の調べ物をしていますと必ず登場する名前がありまして、その名前があちこちの書籍に登場するものの、どれも断片情報なのでいまひとつ消化不良になるんです。
くわしい内容を知ればより深い洞察が与えられることは間違いないのですが、国会図書館へ行く暇もなく、南米を歩く暇もなく、手近な本で小さな発見をしてはピースを埋め合わせるのが精一杯。
ところが4月15日の15時半に事件発生。ヤバい動画を見つけたのでした。
(忙しかったのでいまごろ4月の話を…)
沖縄県立図書館の情報公開に感謝
今回もその手の本を読んでいたときに「新垣庸英」という名前を見つけまして「あぁ、この人の引用(新垣庸英日記)もよく見る名前だけど、前後の脈略がつかめなくて苦労したなぁ」と思って久しぶりに名前を検索したらびっくらポン!情報が出てきた!しかも音声データ!
(この時点でかなり興奮!)
YouTubeの「沖縄県立図書館チャンネル」とあり、そのチャンネルを見て2度目のびっくり!
(完全にスイッチが入った!)
なななんと、驚くなかれ「八木宣貞」のインタビュー音声である!
そろそろ親の介護食準備をせねばと思っていた矢先、この興奮を抑えられずイヤホンで音声を聴きながら調理開始。
いゃー、本当にたまげた。ワールドウチナーンチュネットワーク恐るべし。
よくもまぁ音源を残したと思います。
録音場所は不明ですが音声を聞く限りボリビアやペルーでの現地音声らしく「1973年」という文字が泣かせます。沖縄返還の翌年の音声。
つまり話されているご本人も沖縄返還の事実を知って話されているわけです。どーでもいいことですが、そのとき私は2歳。
いやー、ほんと、ご縁というのは恐ろしい。
クスコの話がなければ気にもせず淡々と介護な日々のはずがたった1通のメールで「いっちょ検索するか」という行為がこれを見つけてしまいました。
それぞれの再生回数は100にも満たないし、沖縄県立図書館の登録者数も
新垣さんにしても八木さんにしても、私の疑問を最も簡単に解決する音声ですよ。是非聴いてみてください。ペルーとボリビアを往来した本人が語っています。そして八木さんにいたってはサムネ画像が蝶ネクタイ!!インテリー!!!
だってね、あのアンデス山脈を超えてペルーとボリビアを行き来した、まさしくその人を初めて見た姿が蝶ネクタイですよ。当たり前ですが「行李籠を背負ってる服装が蝶ネクタイ」とはならないからこそ、そのギャップたるや!度肝を抜かれました。
持ち上げる気はありませんが、この録音は奇跡ですね。
今はスマホでかんたんに録音できますが、当時はようやくカセットテープのポータブル商品が出はじめのころです。当時のお値段で3万円前後ですよ。その普及がもう少し遅かったら音声を残すことは難しかったと思います
そ・し・て、インタビュアーが若き日の大城立裕という…なにもかもが贅沢な音声。すでに芥川賞作家であり、沖縄県立博物館長時代の録音です。
ガチでおすすめの1冊 「移住研究 No.29」
新垣庸英日記について冊子を1つご紹介。
この冊子はJICA発行ですが、ずいぶん昔にダリエン地峡について調べていたときにたまたまたどりついた一冊です。ダリエンギャップの話をすると長くなるので、それはまた改めて。
このなかに「新垣庸英日記とボリヴィア逃亡移民」という記事があります。これの何がすごいか?というと、その新垣庸英日記の全文が紹介されている点。
かの八木宣貞さんの日記「50年前後の思い出」も読みたいのですが、いまだに全文を見たことがありません。(国会デジタル図書で見れることは知っておりますが…)それについてもご本人が音声で語られている通りです。
著者はボリヴィア在住の大塚真琴さん。大学卒業後JICAでパラグアイ、パナマ、ボリヴィアを転々とれたそうです。現在もご存命だと思いますが、これを書かれた当時の年齢は40歳前後。3年かけて調査されたそうです。
当時わたしと似たことを企んでいらしたようで…
この気持ち、よーく分かります。調べるとあまりのスケール感に脳が埋没しちゃうんです。
でね、このレポートのなにがすごいか?というと…
- 新垣庸英日記には「ペルー上り」が詳細に記録されている
- リベラルタから散った日系人を6パターンに分類してある
- フレディ前村や天野芳太郎についても触れてある
どうですか?ヤバい冊子でしょ?「ペルー上り」ですよ。
(興味ない方にしたら、ほんと、どーでもいい話ですが…)
エッセンスを少し紹介しますと、ちょっと雑で恐縮ですが下の地図をご覧あれ。
黄色いピンが「ペルー下り」、赤色のピンが「ペルー上り」。
下りはリマから船でモエンド港へ向かい列車や徒歩でアリコマへ。その先はプエルトマルドナド、コビハ、リベラルタとルート&方面は様々。現代地図で探しきれない地名も多いので、古地図を見ればより詳細な移動ルートが把握できるはずです。
上りはリベラルタからベニ川を東へ向け、マモーレ川との合流地点から南へ遡上。トリニダも通過した先の分岐でチャパレ川を遡上。この川の源流はコチャバンバから直線距離で手前80キロ程度まで続いています。そこから列車なども利用してラ・パスへ行き、チチカカ湖を渡ってフリアカ。そこから先は往路の逆ルート。
すごくないですか?アリコマ峠付近こそ日本人の情報がありませんが、それ以外の場所には、ほぼすべての場所に日本人がいたんですよ!あちこちで日本人と会っては旅を続ける様子が極めて詳細に残っています。それを読みやすくまとめてあるのが「移住研究 No.29」。
ペルー下りの移動距離は少なく見積もって約2,000キロ、ペルー上りの移動距離は約2,500キロ!これは沖縄から北海道稚内への往復距離とほぼ同じです。これが新垣庸英日記です。
新垣さん、とても几帳面な性格で(たぶん)メモ魔。その人の音声が2024年に聴けるとなれば興奮するでしょ?ほんと、驚きました。
(まぁ、興奮してるのは私だけですが…)
今から120年前の話を、今から50年前に録音してくれたことに感謝です。
例えば下のような動画を見たときに「新垣庸英さんの思いは時代を越えたな」とか思うわけです。
この映像を見て「あぁ、昔の日本はこうだったなぁ」と思う高齢者は多いと思いますが、これは沖縄の話であり内地の話ではありません。
やまとんちゅは無子化、高齢化、人口減少、移民加速で「今だけ」しか見られない近視状態。
沖縄の人はどうしてここまで頑張る事ができたのか?それは意識を「次の世代」へ向け「覚悟を決めた」からだと思います。やまとんちゅに絶対的に欠けているのは「覚悟」でしょうね。
余談 : レイナ・デ・エニン・アマゾンクルーズ
クルーズといっても近所のお散歩レベルですが、トリニダード空港から近いマモレ川クルーズだそうです。3D4Nで近所をぐるっと回るだけですが、ここを新垣庸英(はたまた野内与吉)が移動したことに想いを馳せると胸にグッとくるものがあります。
(なにもない場所だと思うけどね)
いやー、とても贅沢な時間をもらいました。今回ばかりはテクノロジーの進化に感謝です。
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最後に、この本を読みながら1人気になった人物がいます。
「サンタ・クルス市の1954年前後に元気だった日本人は以下の通りである(1954年に西川移民の指導者として活躍した武田健司氏より聞き取ったもの)」リストの「ファン赤塚」なる人物。
話がブラジルへ飛ぶので今回は断念。また改めて本を探す予定です。
あと1冊、どうしても気になる本がありそれを最後にペルーとボリビアの読書は一旦終了予定ですが、なかなか見つからず難儀しています。入手できたら追記したいと思います。今日はここまで。
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