今は野遊びの時間を意図的に作ることが重要な時代

ありがたい一冊
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言葉は知っていても全く興味を持たなかった「適応障害」なんですが、つい最近この言葉を若い方が過度に気にしている節を感じ、回り回って辿り着いたのが2冊の本です。

最近はスマホ完結が一般的なご時世なのでPCに比べて圧倒的に文字数が少ない画面で情報を漁っていると勝手に自己暗示をかけて「私ってそーなの?」という間違ったスイッチが入る人が増えそうな気がします。その手のまとめサイトの多いこと。よくもまぁここまで適当な文章を量産してアフィリエイトさせてるなぁなんて感じます。

例えば「多様化」も最近流行りのキーワードですが、この単語の受け止め方も既に本末転倒気味です。多様化ではなかったからこそ認め合うことを整理した言葉なのに、そこに挙げられた項目に自分の行動が当てはまらないと単純に「対応できていない自分」という誤ったスイッチを押すようで、誤射誤爆による自爆という方が多いみたいです。

そんな中手にしたのが養老先生の「遺言」と山本先生の「自然欠乏症候群」です。

この2冊の本は似たようなことが書いてあるわけですが、行間を読んで楽しむには養老先生、自分がわけわかんなくなってテンパってストレートな答えが欲しい人は山本先生といった感じです。

 

自然が遠のいたヒトで溢れる都会生活の罠

突き詰めると生活の中に自然がカケラも無い生活になってしまっており、おまけにデジタル化しているので意識して取り入れないといけない状態で、それに気づいている人もいれば、気づかないで苦悶する人も。薄々感じてはいましたが、あまりにも多くの方々が消化不良状態で、そこにつけいるかのようなビジネスも溢れていたりして「資本主義って自由だけどエゲツないなぁ」なんて感じることも。

ふと自分が18歳で家を出てから今までを振り返ってみましたが、20代は無茶苦茶でしたね。30代は自然を捉えていても重要性をなおざりにした生活でしたから結果として欠乏症みたいな生活を送ってました。40代も前半は暴走してみるも、後半は急旋回して軌道修正といった感じです。急旋回して修復を試みて長生きしたいなんて考えではなく、単に少しでも人間らしい時間を増やしたいというだけです。

 

日々「人工」との戦い。快適そうにみえて不快なことに気づけない

「自然欠乏症候群」のP.88には10のチェックリストが書かれていおり、それを見ると「東京23区民全員病人」と定義できそうなことばかりです。でもそれは仕方ないことで、お金儲けを優先する場所(都市)では当然の流れです。「経済性や利便性を優先すると自然欠乏症になる」ことは分かっていても止められない状況。都市が都市たるゆえんは下の本にも色々と書かれております。

人口減少に伴い意図的に、合理的に「都市をたたむ」 – en1

中でも「利便性=快適」という一見正しいような間違った図式が脳内に出来上がっていると、誤った快適認識故に病気を自覚できず、自分と対峙できないややこしさがありますよね。とりあえず文にするために病気というキーワードを使いましたが正しくは病気ではなく「自然が足りないので欲しているのに理解できていない状態」というだけです。

快適な生活なのに病気に感じる意味が理解できない人が多いからこんな本が注目されるわけです。ずいぶん昔にメモしていると思いますが夏の暑い日にエアコンをガンガン効かして「快適~♪」なんて不自然なことが自然としか理解できないと残念な方向へ進みます。

 

「意味」を問うことをやめ、日常生活に自然を取り入れることの大切さ

意味とは…

1から10まで説明してウンウンとなる本とは対照的に養老先生の本は斜めに斬ってくるセンスが面白いですね。

特に「意味」についての解説は興味深い点でした。この「意味」も段階を追った理解が必要で、物事に意味を求めた方がよいこともあると思いますが最近の風潮は「意味ありげなストーリー」で煙に巻くスタイルが横行しているように感じます。特にビジネスは。確かに合理的判断が連続すると無意識に意味のない行動や時間をカットしています。以前に開高健さんの本でもメモしていますが自然界に意味のないものは何一つないのに人間界の都会生活に慣れ、人工物に麻痺すると…忘れては思い出すの繰り返し。

もはや意図的に生活に取り入れないとダメですね。

何事も目標や目的、予算や経験を糧に判断するのは経済生活では必須となっているのでついつい「意味なし」と斬って捨てるわけですが、優先順位という意味や行動すらも自然に察知する感覚が大切で、それが身についていないと左の一節のようなことが起こります。極端な例とは言っても似たような事件が減りませんから不自然な生態の原因はこの辺にあるのかもしれません。

この事件の犯人は「自分に社会が賛同するはずだった」と述べたらしく、寛容さのかけらも無い発言に不自然さが際立ちます。「意味の問い方」や「無いかもしれない答えの落とし所の見つけ方」を感じ取れずに育ったということでしょうか。特に生死に関することで「意味」を問い始めると資本主義経済では厄介ですね。

 

音は耳だけで聞くのではない

これも時々気になっては忘れる内容ですがバキッと書かれていました。

CDの出始めの時に、レコードを聞きなれたプロたちが、なぜかCDはダメだと主張した。深みがないとか、いろいろ言ったのである。…当時のCDはヒトに聞こえる範囲以上の周波数の高い音を、無用だとして除いてあった。そこで聞こえないはずの超音波を加えて、被験者の血圧を測定したら、超音波を除いた場合に比較して、有意差がはっきりでたのである。話は簡単で、音は耳だけで聞くのではない。身体だって振動する。それなら鼓膜は振動しないが、身体の別なところが振動してなんの不思議もない

「まあそうだろうなぁ」とは思っても目に見えないものは信じないというのが人間のダメなところですが、確かにレコードを聴いていると懐かしさと共に心地よさがあるのは不思議です。

パブリックドメインの曲をゆるやかに楽しむ時代 – en1

 

たまには人生に野遊びを

完全にどこかの上場企業のコピーですが私も地方の田舎っぺ大将生活になりましたから意識的に最低でも月に一度は自然に触れることをしております。あまりにもふざけたことばかりしているのでここでメモるとぐちゃぐちゃになりそうなので遊びに関しては別の場所でメモを残しておりますが…案外楽しいですよ。そのうちリンクでも貼りたいと思います。

正直言ってそういう野遊びは意味を問うことが不可能なことばかりです。草を刈ったり、焼畑のようなことをしたり、虫を見つけたり。でも楽しい。おそらく理屈ではないことで、そういうことが心地よいと感じるのが人間なんでしょうね。

本当はもっと海にも出かけて「釣りを楽しもう!」と勇んでいたのですが、こちらはさっぱり進展しておらず山遊びに偏っております。目下最大の目標は生活の視界に人工ではない自然の風景を正に自然に取り込める環境での生活ですが地方といっても利便性を求めると難しいですね。見渡す限りとは言いませんが、生活の視界に自然が入ることが贅沢の極みであることが少しずつ理解できるようになりました。

先月楽しんだキャベツ畑の景色。cabbage & white cabbage butterfly

ものすごい数の紋白蝶が飛んでいました。同じ世界で一緒に生きています。おそらく都会だとコンビニなどで売られるカット済み野菜を買ってビタミン補給というのが関の山だと思います。当たり前ではないことが「それが当たり前」の日常になると不自然なことに気づけませんよね。

ザックリといえば「なんだか心が晴れないなぁ」なんて方にオススメの一冊です。

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