シァミル島 – 北ボルネオ移民史

ありがたい一冊
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本日の読書メモはシァミル島の日本人移民史

シァミル島ってなんぞ??

この本を見つけた人が必ずやっているであろうことはマップサイトでの検索だと思います。御多分にもれず私も検索したのですが見つからず。

そこで一旦は追いかけるのを止めたのですが、ふたたび気になって古本購入。結論から言うと正確には「シ・アミル島(Si Amil Pulau)」なんです。

(チッ、見つからないはずだょ)

場所はマレーシアのボルネオ島サバ州の南東付近の小さな小さな島です。面積は約0.55平方キロメートルという、あまりに小さすぎて見失うほど。おそらく1時間もあれば島を1周できる大きさだと思います。(知らんけど

この辺りはローカルな海賊が出没する場所でも有名で、私も一度この付近を徘徊したことがありますが、ここに日本人移民史があったんですね。まったく知りませんでした。

私はサバ州の北側のほんの一部しか徘徊経験がないのですが、それでも海はそこそこ美しくのんびりと過ごした経験があります。しかし下の動画などを見ますと透明度は素晴らしいですね。

今から100年前はイギリス、オランダ、日本が三つ巴で大暴れしていた場所です。

 

1927年(昭和2年)2月某日

シ・アミル島にボルネオ水産の従業員十数名上陸から物語はスタートします。カツオ漁に欠かせない生き餌イワシを生け簀にプールする場所としてこの島にやってきます。

ちなみにこの生け簀はマレー語の辞書にも載らないような方言で「コリア(koria)」と呼ばれていたようで次のようなことが書かれています。

餌料の採捕にあたる糸満漁師たちグループの本拠を置き、ここを中心として近傍に散在する島々の要所要所にコリア(4メートル六角形の生簀)を次々に設置してゆこうとする計画であった。

沖縄本島南部の糸満は昔から漁師町として知られ、江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけてアジア太平洋各地で漁をしていたそうですが、昭和からは沖縄・鹿児島・神戸と国内移動し、その後フィリピン・マニラやシンガポール経由でサバ州へ向かっていたそうで、海がシケていた場合は到着に1ヶ月以上を要したそうです。

沖縄から直接南へ向かったように想像しますが、普通は神戸経由。ただし、本書には香港経由でサンダカンに上陸した例も書かれており、強者がいたようです。

 

試植移民ってなに?

こんな言葉があることをはじめて知りました。

その土地が日本人の移住・定着に適しているかを調べる目的で派遣されるパイロット移民とも言える人々です。

二十数名が将来におけるボルネオ水産一家の布石としてタワオから二十里、アバスの近郊、スンガイ・ガデンへ入植したのは大正15年の秋であった。

大正から昭和へ変わろうとしていた直前に日本人がボルネオ島開発へと送り込まれていたなんてあまりに新鮮で斬新な情報。しかも独身ではなく家族での帯同移動。

学校もない場所へ行き、現地様式の家でプレスクールをスタートし、昭和2年には学校が正式にスタートしたようですが、たった100年前に存在した学校名が不明らしいです。日本が戦争で負けた瞬間から学校は閉鎖され、ある意味現地人は解放されたとも言えます。

入植自体は南米同様に大変で、猛獣・毒蛇・マラリアといったお決まりパターン。

どう考えても入植には向いてない場所だと思いますが、結局人がいる場所であればどこでも送り込んだというのが事実でして「試植移民」なんて言葉遊びですよね。

 

永代租借期間999年!

こんな視点も私にとっては初めての概念。

当時、英領北ボルネオを統治していた勅許会社の「土地条項」という法律の中に「土地はいずれも北ボルネオ政府からの租借であるが、その租借期間は、市街地で99年、その他の土地は999年である」というものであった。

つまり、イギリス王室から勅許(Royal Charter)を受けた貿易会社の英領北ボルネオ勅許会社に与えられていた実質的に北ボルネオを私的に統治する権利の話で、市街地土地の使用権が99年、農業、プランテーション、森林、未開地が999年というお話し。

身近な場所としては香港の一国二制度、日本だと山口県の彦島あたりを思い出しますが、当時のイギリスはワンパターンで世界の植民地オセロゲームを楽しんでいたようです。

この文章を読みながら高杉晋作と伊藤博文を思い出しました。

下関攘夷戦争の賠償金でもめていたとき高杉晋作が船内交渉で古事記を滔々と語り伊藤博文が通訳に困った件ですが、当時は皇紀2523年。皇紀の概念は明治以降ですから高杉や伊藤に皇紀という概念はありません。

私も昔から「なんで高杉晋作は古事記を滔々と語り始めたんだ?ただの変人か?」と思っていたのですが、この「永代租借999年」でピンときました。つまり、高杉晋作も「永代租借999年」の意味を理解していた人間ではないかということです。日本にはそれをあっさりと理解できるだけの国史があり、999年という長さがいかほどかを理解できていたので高杉は古事記を語り始めたというのが私の推理です。

これは今でも世界的に見て日本人しか理解できない感覚です。

 

シ・アミル島のシィチキン

以前に天野芳太郎の本でも登場したあのシーチキンのお話し。

「天界航路」と「わが囚われの記」
本日のメモは天野芳太郎さん。動機は野内与吉。もちろん読む前からアンデス研究第一人者であることは知っていたし、以前にメモした島袋盛徳...

ここでは一本釣りでのカツオ漁が豊漁だったのですが、その売り方というのがいかにも日本人らしい行がありました。

鰹ぶしはその殆どが本国日本への輸出品だったのにかんがみ、缶詰は諸外国向けに視点を移した輸出優先の外貨を稼ぐというのがボルネオ水産の至上政策でもあった。だから缶詰に添加されるオイルも、オリーブ油、サラダ油、そして棉実油などとそれぞれ輸出先の好みに応じて種別され、当初は生産量も少なかったので、まず、アメリカ合衆国むけとして試験的に輸出されたが、これが非常に好評でサンプルを送った各国からの引き合いが殺到する有様であった。

天野芳太郎の話は1936年ですから、もしかすると天野もボルネオの情報を嗅ぎつけコスタ・リカで莫大な財を稼いだのかもしれません。ちなみに本書でも船の話になると静岡県焼津市の文字が出てきます。天野と情報が繋がっていたと推測できます。

今でこそ日本企業もグローバルブランドのようなビジネスが全盛ですが、いまから約2-30年前はすこし過剰に相手のスタイルに合わせた商品づくりも一般的でした。そのルーツはこのシィチキンの話からも感じられます。

各国の消費文化に合わせて製品内容を調整し現地適応型のインターナショナル戦略。

海外体験が多い人ほど商いが上手になりますよね。日本は少なくとも100年前からトランスナショナルビジネスです。

シ・アミル島の缶詰工場スタッフたち

 

自由主義アカデミズムな教育

いきなり本編とは関係なさそうな小見出しですがちょっと気になってメモ。これはボルネオでの話ではなく日本内地のお話し。

片岡満雄さんは東大農学部林学科出身の若い学士さんである。卒業後、一年余の兵役義務をすませ少尉に任官、除隊して三菱商事へ入社した。そして自らタワオへの赴任を志願して、七ヶ月目の幼児をつれた奥さんと一家をあげてこのサマラン丸の客となったのである。

タワオはサバ州の南に位置する都市名で今では「タワウ(Tawau)」。シ・アミル島までの所用時間は6時間。この場所におそらく20代であろう若者がいきなり赴任。

しかし片岡さんにとっては内心、一つの災難から解放されるという安堵もあった。ともかくタワオという未知の別天地で新しい生活ができるという期待と希望にもえていたのである。いわゆる大正デモクラシーの勃興期といわれた自由主義アカデミズムな教育をうけてきた片岡さんたちにとって、当時の日本は息詰まるような社会情勢にあった。満州事変がはじまって6年ごしになる。日支の対立は益々ふかみにめり込んでゆく。列強の顔色をよみとるに鋭敏な蒋政権は、いよいよ抗日、毎日のピッチをつよめ、日貨排斥を露骨に扇動してそれがアジア全域の華僑へと燎原の火の手をあげていった。まさに日支の関係は一触即発の危険をはらんでいたときである。それに業をにやした日本の軍国主義者やファシスト達は益々内政し、その時局に便乗する似而非愛国者たちが蠢動を開始、文部省は「国体の本義」を説き自由な言論は圧殺された。特高警察はみさかいもなく無の国民を弾圧する。要するに日本は思想的にも社会的にも暗黒な冬の時代へ向かって奈落の破局へと駆けくだっているときであった。しかもそれから二ヶ月後の7月7日には盧溝橋事件に端を発して日中の全面的な衝突へと発展していった。

長々と引用しましたが、この時代の情報は学校でほとんど習いませんし、敗戦後の情報統制で焚書されたことも相まって言葉や文章での確認が難しい時期ですがこうして片岡さんの人生から生々しく様子が想像できます。

こういう文を見ますと昔も今も変わってないことがよくわかります。

後の小林多喜二事件、東大滝川事件、津田左右吉事件とつながる中で「思想犯」という特殊な概念まで生み出された過程と本書の片岡さんとがつながる感覚がとても不思議です。行動に移さず、考えただけでアウトという社会的空気はかなりヤバイ状態ですよね。

 

暗転への序曲

ボルネオでの日本人移民はほぼ昭和と同時スタートですが、ご想像通り戦争と共に終了することとなります。これが生々しい。

昭和18年、南太平洋を舞台とする日米の死闘は決定的な段階に入り、その戦局は日本軍にとって刻々と急迫を告げていた。米・豪連合作戦の遮断が目的だったニューギニア作戦は、すでに前年の1月、わがブナ守備軍の退敗を転機として、2月には遂にガダルカナルを放棄し、乾坤一擲の作戦に出でた6月5日、6日のミッドウェイ海戦では、わが連合艦隊の組織は事実上、潰滅していた。

この様子をボルネオから眺めていた著者ですが内地の大本営発表は快進撃ニュースだらけ。昔も今もメディアはプロパガンダが本業と理解した方がよいみたいですね。

昭和18年に入るや5月、アッツ島で山崎部隊の玉砕を皮切りに、11月にはマキン、タラワの両島でも玉砕、こえて翌19年の2月には、わが委任統治領だったマーシャル群島のクェゼリン、ルオットも玉砕して絶対国防圏といわれた内南洋へ直行するルートを敵に明けわたした。やがて6月にはサイパン島も失い、もはや日本軍にとって戦勢の建てなおしは殆ど絶望的であった。これと符合するようにボルネオの内陸部や周辺に散在している島嶼群を舞台にいよいよゲリラ活動が本格化の様相を呈してきた。

シ・アミル島は昭和19年11月、連合軍の爆撃機3機による空襲でトドメを刺され、日本人は捕虜になった者、巻き込まれて亡くなった者、引き上げ船で帰国した者といった流れだそうです。

私はいまひとつボルネオ戦線のイメージが掴めませんでしたが、残る映像にはB25が空爆する様子が見てとれますから、ボルネオの日本人移民が右往左往していたことが容易に想像できます。

ボルネオに自分の意思で行き、そこで働き、結婚や出産をし、戦争に巻き込まれて死んでいった家族の人生を垣間見られる本ですが、いまも同じことが起こり得る感覚が不思議です。

ウクライナやパレスチナに住む日本人はボルネオと似た体験の最中。自分がどこの国にいても平和な時間が流れているというのは奇跡です。

近代日本史の日本人移民について書かれた本はあまり手に取る機会もないと思いますのでWW2前後の移民について興味がある方にはおすすめの1冊です。

シァミル島 – 北ボルネオ移民史

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