ワシントンハイツ – GHQが東京に刻んだ戦後

ありがたい一冊
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ようやく読書する気持ちが戻ってきました。本日は「ワシントンハイツ – GHQが東京に刻んだ戦後」についてのメモ。

1945年8月30日にフィリピンのマニラからC-54に乗ってやってきたマッカーサーが同日14時ごろ厚木飛行場に到着しコーンパイプを右手にタラップを降りている写真を教科書で眺めますが、その後1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効による主権回復までに国内で何があったか?というのは学校で習わない空白史ですよね。

そもそもサンフランシスコ講和条約で日本の主権は回復しておらず、正しくは「アメリカに安全保障依存する制限主権国家」とか「主権の非対称的回復」とか言われたりもします。

(つまり「日本は主権国家ではない」ということ)

マッカーサー到着からすぐに始まったこととして知られているのが次の6つ?

  1. 軍人、官僚、政治家、経営者など公職追放(20万人)
  2. 検閲と言論統制
  3. 憲法改正(1946年マッカーサー草案)
  4. 極東国際軍事裁判(東京裁判)
  5. 財閥解体
  6. 農地改革

大きくはこの6点ぐらいでしょうか?この中で私が大人になっても深く記憶していたのは財閥解体と農地改革ぐらいでした。たぶん学校のテスト勉強で必要だったんでしょうね。

大人になって20代でよく目にした情報は東京裁判。30代になってから日本国憲法を日本人が作ってないことを知り、40代になって気になりはじめたのが検閲と言論統制です。

50代で改めてこの6項目を眺め、この中でどれが最も重要な戦略かを考えると、やはり検閲と言論統制だろうと思います。これだけは全国民が影響を受けていますよね。

ということで、かれこれ10年ぐらい前に買って読んだ本が「ワシントンハイツ」。1945年(昭和20年)8月30日から1951年(昭和26年)4月16日に羽田から飛び立つその「5年7か月17日間」に日本で何があったのか?学校で教えてくれないことを学べる1冊です。

一部興味深い点を書き出しますと…

p.39 – 5月25日に投下された焼夷弾の量は、8万3千人を超える死者を出した3月10日の「下町空襲(約38万発、重量にすれば1700トン)」の倍近かった。後に米軍が明らかにしたB29の数は大本営発表の「250機」ではなく、470機だった。…東京の消失面積は全市街地の50.8パーセント。この空襲を最後に、米軍は「主要目標なし」として東京を大規模爆撃リストから除外している。

たとえば全長30メートルのB29が横に10機並び、100mの機体間距離で470機も飛んできたら、東京上空6キロに渡って大量の飛行機を上空に眺めることになります。ちなみに高度1,200-2,500キロでの飛行だったらしいので後方パイロットは逃げ惑い黒焦げになった日本人を目視していたことを想像すると確かに鬼畜米英という言葉は的確ですよね。

 

p.82 – 日本代表団は黙って引き下がらなかった。文書を受け取ってから書き損じに気づき、異議を申し立てている。×印をほどこすのに10分ほどを要したが、この間に連合国軍の代表団はミズーリ号をさっさと降りていた。日本代表団は居残り組として、取り残されている。調印式そのものは20分ほどで終わっている。しかし、アメリカが勝利を世界にアピールするための演出は続いた。アメリカ第三艦隊の艦載機1500機と日本を空爆したB29、400機の大編隊が、爆音とともに東京湾上空を飛び交った。

これも教科書で必ず目にする写真です。カナダがフランスの署名欄に誤って署名した、その失敗作を日本が持っているわけですが、そんなことよりも本当に1900機もの飛行機が飛んだの?って思いません?艦載機の飛行機は停まったままだったのか?

それにしても日本人というのは…1945年5月8日にドイツが降伏したあとは太平洋地域だけとはいうものの全世界を相手に戦争してたわけで4月1日からの沖縄地上戦が凄惨を極め、筆舌し難い状況だったのも理解が必要ですよね。

 

p.141 – GHQへの批判と、疫病にまつわる記述をみつけたら、翻訳してレポートを書くように指示されていました…彼女の所属はCCD(Civil Censorship Detachment = 民間検閲支隊)で、GHQ・CIS(Civil Intrlligence Section = 民間諜報局)の中にあった。ここでは郵便、電信電話、旅行者携行文書の検閲が民間情報将校の下で行われていた。東京では東京中央郵便局、東京中央電話局、東京電報局にそれぞれ通信隊郵便班、電話傍受班、電報班が派遣されていた。新聞、放送、出版物、映画の検閲を行なっていたのも、このCCDである。…日本語を学んだ日系二世たちも送り込まれていた。

442部隊からMISLS(米陸軍日本語学校)のことを知って調べたことがあるのですが、日系2世が良くも悪くも暗躍していた時代です。当時の日本人で英語を理解できたのは全体の3-5%程度なので95%は日本語しか理解できないところへ日本人DNAを感じる風貌の日系アメリカ人の会話は鵜呑みでしょうね。イーロン・マスクが「言論の自由が民主主義の基盤」と言ってます。これに不自由を感じたら戦争が始まっているということです。

 

聖路加国際病院の日野原氏がそう口にする「ララ物資(Licensed Agencies for Relief in Asia)とは、アメリカ、カナダ、メキシコ、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどの諸国から集められた対日援助物資の窓口をを一本化するために生まれた組織だった。…贈り主にかかわらず、運賃はアメリカ政府が負担して援助物資が船で日本に送られた。受け入れ機関は日本政府厚生省社会局…この動きの仕掛け人はサンフランシスコに住んでいた日系人、浅野七之助である。

どの本を読んでもサラッと触れられているララ物資ですが元を辿るとキリスト教系宗教団体。少なからず日本人の宗教観に影響を与えたと思います。当時の在米日系新聞には「日本難民救済」という文字が多数残っており、全世界の日系人が立ち上がってくれて今日の日本があるんですね。なかでも有名なキーワードが私も食べたことのない「脱脂粉乳」。

これも有難いことですが、その手前に無差別爆撃と原爆で木っ端微塵にして需要創出後の供給と見ればマッチポンプも事実。まもなくウクライナやガザで始まります。

 

p193 – こうして出来上がった草案を携えて、ホイットニー、ケーディス、ハッシー、ラウエルの4人が麻布にあった外務大臣官邸に足を運んだのは2月13日。サンルームには、吉田茂、松本烝治、白洲次郎が席に着いた。その3人にとって、そこで提案された松本案を拒み、GHQが別の草案用意してくるなどとは、全くの想定外の出来事だった。ここから後に「押し付け憲法」論が生まれることになる。

日本国憲法がGHQ商品というのはようやく大衆レベルでも知られていますが、意外と知らないのが松本烝治による明治国家志向だと言われる憲法草案。不採用案はゴミ扱い。ここから日本人のDNAに「民主主義はすばらしい」が刷り込まれることになります。しかし実際に運用すると民主主義は民衆が賢く行動しないとうまく機能しないというのが年々暴露される事態です。

投票に行かない国民が8割越えの地方も現れ始め絶賛国家崩壊中。それにしてもですよ、GHQの憲法チーム約20名が1週間で作った国家最高法規を日本人が崇めているというのもいかがなものかと思いますよね。さすがに時代に合わない部分もチラホラ。これだから主権のない国と言われるわけです。

 

p.428 – 後に歌手として、また俳優として活躍する、あおい輝彦(本名・青井輝彦)氏である。彼は代々木中学に通う少年だった。…あおい氏が入団した野球団は「ジャニーズ少年野球団」といった。声をかけた日系人の名は、ジャニー・ヒロム・キタガワ。歌って踊れる美少年たちを世に送り出し続けている芸能プロダクション、ジャニーズ事務所の創業者であり、77歳となる現在も代表を務める。所属タレントの代表格といえば、SMAPがあげられる。

この本はジャニーズに触れてあることでも有名ですが、いまこのタイミングで読み返すと色々なことを感じます。

いまさら「GHQ」なんてキーワードは過去の遺物の感覚ではありますが、確かにそこにジャニー・キタガワ氏が存在し、日本全土を芸能で席巻し、いまでは崩壊し、陰謀論の域を出ないCIAすら「早期退職を勧奨する通知を出した」という状況まで来ました。諸行無常です。

下の動画再生回数「20万」の文字を見ますと、日本人がまだまだ寝ボケた状態であることがよくわかりますね。

GHQにより7千冊を超える焚書で文明が消されたにもかかわらず無形文化で戦後80年をつないできたわけですが、さすがにここに来て誰もが「このままでは日本がマズイ」ということを肌で感じていると思います。特にバブル崩壊以降の衰退ぶりは痛々しい。

こんな国になってしまった、してしまった理由の一端がアメリカ占領下の「5年7か月17日間」にありますが、情報が意図的に消されたことで日本人は物事を洞察できず退化しているようです。「ワシントンハイツ – GHQが東京に刻んだ戦後」おすすめの1冊です。

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