人間は行動がすべて

介護
Screenshot
この記事は約8分で読めます。
スポンサーリンク

つい先日父親を見送ったので、そのことについてメモしたいと思います。長らく介護エントリーが手薄でしたが、相変わらず介護は続いております。

どんなに介護を尽くしても後悔は残る

つい数日前に父親を見送ったのですが、私は両親を居宅介護でしたので父親が入院しても長時間自宅から目を離すことができませんでした。僅か39日間の入院であっという間に旅立ったわけですが、毎日足を運び、せいぜい1時間程度の時間をすごすのが精一杯でした。

もちろん父親の介護も多少はしたのですが、総じて手のかからない晩年でした。そして、一般的には家族に見送られての最期とはいうもののあっけない幕切れに「人生の儚さ」を痛感しました。見送られても、見送られなくても死は突然やってくるわけです。

おそらく多くの人が「人生は幸せだったのだろうか?」と回顧すると思いますが、それと同時に私の場合は「息子に介護されていた時間は幸せだったのだろうか?」とも思うわけです。

父親は入院直前まで食事準備、入浴、洗濯なども自分でできることはすべて自分でしていました。亡くなる1ヶ月前まで買物を楽しむ親でもありました。

(そんな体力は無いのですが…)

 

死んでわかる親のありがたみ

親のありがたみは一般的に18歳前後で社会へ出たときに感じ、次は結婚、出産、病気の看病で世話になった時に感じ、そして最後に亡くなったときに感じることが多いと思います。

しかし私の人生は18歳で家を出て学校でろくに勉強もせず、社会に出たと同時にバブル崩壊で生きるのに必死でしたから親のありがたみを感じるゆとりがない人生でしたね。そして結婚もせず、子も残さず、バカは風邪ひかないの典型で元気に過ごしてきました。

しかし親の死亡はかなりメンタルに堪えますね。

母親を見送れば私も家族なき「独り」の存在となり、そしていつの日かひっそりとこの世から消える。「散る桜、残る桜も、散る桜」という言葉を噛み締める年の瀬です。

 

日本復活のカギは死生観学習

日本人は死に関する感覚が鈍っていますね。最近整形医のグアム献体研修がSNSで話題でしたが、親の入院中病院スタッフの対応に色々と考えさせられました。

焼き魚のように雑に扱う人もいれば、ひたすら丁寧に声をかけながらの人も。しかし毎日が死と隣り合わせの仕事はメンタルの強さも鍛えられて当然ともいえます。

父親は個室入院でしたが「冷蔵庫利用契約が無いと思いますので、中のものは出させていただきました」という看護師も。もちろん個室を利用するぐらいですからそれぐらいのお金は持っているし契約も済ませていますが「日本人らしくないことをする看護師だなぁ」なんて思ったものです。

普通の日本人の感覚だと、冷蔵が必要だから冷蔵庫を利用しているわけで、食品をすべて出すにしても家族に確認した後でも電気代なんてしれた額だと思うのですが…。

そうはいっても終末期を看取る医師の倫理観や態度はさすがで(慣れておられるとはいうものの)かなり神経を使って対応いただきました。最後は終末期医療になりますが、開始判断は難しいですよね。対応が早すぎると殺しているようでもあり、遅すぎると本人が苦しむ時間が長引く。

私は入院直後から「万一の時に胃瘻に類するものは一切しません」と即答していましたので、医師としてのタイミングだけで判断いただき、わりと楽な対応の患者であったろうと思います。

やはりもう少し若い年齢で死を体験しておけば、人生観がしっかりすることは間違いないですね。

私は祖父を小学生の時に亡くして以降は身内が健康で祖母は100歳存命中。ようやく最近親戚の死がバタバタと頻発しております。おそらく中学生や高校生で誰かの死をみる機会に恵まれると、その子の人生は濃いものになるでしょうね。

 

要介護1が死に、要介護5が残る

おそらくここで親の要介護度を書くのは初めてだと思います。こんなことを書くと私の介護が大変であることがバレる数字ですが、亡くなった父親は要介護1でした。しかし身体障害者1級の手帳を持っていました。

要介護5の母が先に逝きそうなものですが、大事な妻を残して要介護1が先に旅立ちました。介護アルアルです。

この要介護度ですがルールは必要なものの、ジャッジは担当者のサジ加減ひとつという曖昧さがあまりにも不公平でしょうね。そして要介護になった者も、その家族も「介護は外部化して家族は金儲けに勤しめ」という社会にした今の6-70代は猛省すべきだろうと思います。

この状態で私はフルリモートで自分で稼ぎながら両親を介護しているわけですが、そんなことは神業レベルで難しいわけで、わたしの寿命も2-3年は縮んだと思うぐらい大変です。

a.要介護認定は認知症患者との区別が必要ですし、私の父親がそうであったように「自分でできることは自分でする」としても、それを毎日続けることは難しいわけです。仮に認定が要介護1や2でも家族不在では当人の自己介護は負担が増すばかりでとても穏やかな老後を送れません。

ちなみに要介護1の福祉レンタルも可能ですが「一定の要件」がつきまといます。ここが柔軟であればよいですが、厳しいと各家庭の経済状況で不都合も大きくなります。

b.いまの社会は人口減少と社会保障の問題から議論がスタートする傾向ですが、それは間違えていると思います。その議論はいまさら手遅れ。大切なことは人間を大切にする社会であり、経済を大切にすると格差ゆえに結果的に粗末に扱われる人が絶えません。

税収アップに「女性が活躍する社会」とか言いますが何に対して活躍するのか?というと経済です。子どもが減るのは当たり前。子どもが金儲けに明け暮れて親の介護を外部化するのではなく私のように自分で親を介護したいと思うものが金儲けに明け暮れなくても看取れる選択肢をつくればいいわけです。子育ても一緒。人間が過度に社会に合わせ続けると息苦しくて窮屈ですよ。

子育ても介護も選択肢が金儲け1択へ追い込む社会にしておきながら性別の話題は多様性とか言ってるでしょ?そんな問ことは後回しです。死は全員平等に訪れますから。

c.介護のみならずあらゆる問題に共通することですが、各種問題の議論は当事者がすべきでしょうね。それを国会へ上程し、国会議員は正しく決定する能力に長けた人が運営すべきですよね。介護問題であれば介護経験がある人。自動車運転しない人が交通ルールを議論できないのと一緒です。これも元を辿れば偏差値教育の失敗ということでしょうね。「高学歴ヒエラルキーは正しい」という誤った認識が反省のスタート地点だと思います。

 

「家で死ねない」と「孤独死」

息子としてはある程度の覚悟をもって日々介護していましたので自宅で看取ることも頭の片隅にありはしたものの、本人が望めば病院へ行き、そこで容態が悪化しご臨終となれば家で死ねないわけですが、別の言い方だと息子の覚悟が足りなかったということにもなります。

ただし、これから先の日本では私のような独身が増えますと死に方も再び自宅となり、最近はとかく「孤独死」とか言われますが、今回父親を見送ってつくづく「人間最後は全員孤独死だな」と思いましたね。話しかけようが、手を握ろうが、体をさすろうが、死ぬ間際の人間はなにも反応できません。医師や看護師が「死ぬ間際でも耳は聞こえますから」と説明してくれるぐらいです。

それでも1度は要介護5の母親を病室までつれていき、亡くなる数日前に手をつなぎ、それぞれが心の中で会話する時間は作れましたので、バカ息子なりにできることはしてやったつもりですが、それも「自宅で死ねばこんなことも不要なのに、なにかと無駄なことをしてるな」とも。

もし、たまたまこの駄文を目にされたあなたが「孤独死」という言葉に不安感を覚えるとしたら、それは自分との対峙が足りないだけで「不安を抱く必要はないですよ」とお伝えしたい経験でした。確かに肉体的には誰かがそばにいても、精神的には全員人生の最後は1人なんです。ひたすら1人で死と格闘して死にゆく父を見ながら「そうか、孤独というのは見守る側の健康な状態での視点でしかなく、当事者は全員が最期は独り死じゃん」とか、そんなことも感じていました。

(だ・か・ら、子どもの時の看取り経験が大事)

「孤独死」というのは社会問題的な煽りキーワードとしては秀逸ですが人間の最期は「動かぬ肉体を他人に見守られていても精神的には1人で死ぬのが自然の摂理」と思えば、人類全員避けられませんから、そんな言葉に不安を覚える必要がないということですね。

余談ですが、本当の意味での孤独死というのはかつての特攻隊員のような死に方だと思います。死を避けられる極めて健康な状態で死へ向かうそのメンタルは想像を絶します。

〜・〜・〜

そんなこんなで火葬も終わり世間は仕事納めで手続きは何もできず穏やかな空気を取り戻しておりますが、最期に「もう少し父親に声をかけてやりたかったなぁ」と思いますね。それだけが本当に心残りです。後悔とはこのことですね。

亡くなる当日は朝から実家と病院を都合4往復。自宅の要介護5を放っておけませんので行ったり来たりで私も心の余裕が持てませんでした。合間に仕事の発送業務などもありまして…。亡き父は病床で毎日欠かさず「母親のことを頼む」と言い続けましたので、その言葉どおりの行動に満足してくれていればと思いますが、本当に悔やまれます。

ということで、これから多死社会へと邁進する日本では親の介護が発生と同時に「どこの病院へ?どこの施設へ?」としか思い浮かばない人が大多数だと思いますが介護というのはやってみると本当にいいものですよ。

毎日ご飯を用意し、洗濯をし、排泄物を処理し、風呂に入れてやり、たわいもな会話がいかに平和であるかを思い知らされます。そして確実に老いて死ぬ姿を見て生きる意味も学び直すことになりますね。私もいい歳ですから他人の死もそれなりに経験していますが、やはり親の死は格別の虚無感と充足感がありますね。まだ介護はしばらく続くのですが、後悔のない介護を全力でしたいと思っています。

よく「親を看取った」という話は聞きますが「親を介護した」というのは聞かないですよね。それだけ日本社会が外部化の極みですが、そもそも論として「自分の(家族の)ことは自分(の家族)でする」を取り戻さないと、日本の復活はないでしょうね。

正月というのは家族のありがたみを感じる時でもありますし、すべての人に穏やかな時間が流れることを願っております。いま隣の家で子どもたちのにぎやかな歌声が聞こえています。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」ですね。

share
介護
スポンサーリンク

コメント