本日のありがたい一冊は昭和35年に発行された『インカの山をさぐる – ペルー・アンデス探検 – 』です。この探検記の内容について述べると、その目的は「アウサンガテ登頂記録」です。
私の読書の目的?もちろん山登りへの興味ではなく、むしろそれを支援した日系移民に関する情報がどのように描かれているかを見つけることです。
しかし情報というのは能動的に探していると点と点がつながるもので不思議です。
「アウサンガテ」って?
そもそも本書に何が書かれているのかも知らず、書籍の発行年数とタイトルだけで嗅覚を働かせての購入ですが、以前にメモした『黄金の秘境 インカ探検記』は昭和40年の本です。今回は昭和35年。わたしが欲するところの答えは本書でもハズレ。さらにさかのぼって昭和30年頃の書籍も探す必要がありそうです。

それはさておき、本書が登山の本であることを知らずに購入したものの「アウサンガテって最近どこかで聞いたような、見たような…」と思っていたら、本当に見ていた。
最近「YUDAI SUZUKI Climber」というユーチューブチャンネルにアップされていた「ガンバルゾム(6,672m)」という登山動画を見ながら「そーか、かつて栗城史多さんが「冒険(情報)の共有」といってトライしたエベレスト登山は死後も執拗に粘着されて叩かれていたけれど、このぐらいの標高であれば自分たちで記録を残すことが普通の時代になったんだな」と思いながら動画を見ておりました。

ガンバルゾムの動画を見終え、「どれどれ、他の山動画は?」と探したら「アウサンガテ」が出てきたのでした。
ということで本書のアウサンガテ登頂ルート説明を一部書きますと…
第二幕営点から上への登攀(とはん)は、気候の変化による滝のような落石で、稜線に近寄ることができず、悲運にも退場させられたのである。「逃した魚は大きい」このたとえのごとく、主峰の北壁は実に素晴らしい迫力を持った山である。
1000メートル以上もつづく蒼氷のナイフブリッジ、その不気味な姿は、一歩でも頂上に近づく者を、奈落の底へ振り落とさんとかまえているようであった。
さすがにエベレストも「お金と体力があれば登れる山」となりつつある昨今ですが、こうして未踏のルートを攻めるのも楽しみ方のひとつですね。
いまは「ネバド(スペイン語で雪をかぶったの意)アウサンガテ」と呼ばれるそうですが、本書では「ワイナ(ケチュア語で若者や皇太子の意)アウサンガテ」と書かれています。
改めて地図を見ますと「ははぁーん、こりゃ日系人には庭みたいな場所だな」と感じた私は移民書籍の読みすぎですな。かなり重症。
サン・マルチン・ホテル
色々な本を読んでみるものですね。今度は予想外の場所から日本人が降臨。
参りました。ここで「サン・マルチン・ホテル」が気にならないわけがない。
しかしここでもっと気になったのが「沖縄県出身」の文字。もはや書籍を調べ倒すよりも沖縄県編纂のウチナーンチュ移民史本を買った方が解決が早いんでね?ということ。
深みにはまりそうなので一旦勇気ある撤退。
それにしてもいまから65年前の情報ぐらいネットで簡単に出てきそうなものですが、そう簡単な話ではないのですよ。おそらくこのホテルはすでに消滅済だと思いますが忘れた頃にひょっこり情報を掴むかもしれません。
クスコに住む河村さん大村さん
本書でもお馴染みクスコのツートップ登場。どうやらクスコへ漂着する日本人をもれなくケアされたというのは実話のようです。
クスコに住む河村さん大村さんの案内で、州知事と警察本部へ挨拶に出かける。ここには日本人が四世帯も戦前から住んでいるが、河村さんと大村さんはクスコでも指折りの富豪である。この二人の方にはわたしたちのみならず、リマあるいは遠く日本からやってきた旅行者が、ほとんど全部といってよいほど世話になっている。
出没先が警察本部というのもなかなかの話ですよね。普通は出入りしません。
河村さんは佐伯さんという叔父さんの呼び寄せ便で山口から移民となった人ですが、商才に恵まれた方のようでなにひとつ不自由を感じさせない移民の方。続く文章には「河村さんが運転してくれるポンティアックに乗ってクスコから約300キロ離れた根拠地ティンキに向かう」とあります。
その時と同じ車かは不明ですが『黄金の秘境 インカ探検記』には「燃えるような紅の新車」と書かれていました。たぶん下の車種だろうと思います。

Screenshot
いまひとつ当時のペルーの雰囲気を理解しずらいのですが本書によると、当時の(おそらく)リマ市内の様子はこんな感じだそうです。日本と変わらない大都会ですよね。
余談ですが、中央分離帯位置の駐車が独特ですよね。4車線の内側1車線が駐車スペースという使い方で、停車は楽ですが出庫は当てる率が高いように思いますが実際はどうなんですかね。歩道もしっかり整備され、街路樹、街灯、看板広告もちらほら。なかなかの大都会です。
クスコの在留邦人たち
「ここには日本人が四世帯も戦前から住んでいる」と書かれているクスコですが私の興味を大いに刺激したのが下の写真。
(こんな写真で興奮してるのは日本人で私ぐらいでしょうね)
もはやこの本が登山記録であることすら忘れそうなぐらいの1枚。
後ろに写っているのはファウセット航空(Compañía de Aviación Faucett)。私もかろうじて名前は知っていましたが、実物はこの写真が初対面。
右端の現地男性はハダシに見えます。1960年頃ですよ。しかも飛行機の駐機場の真横です。日本でも靴を履いていた時代ですよね。
さて、注目は中心の5名ですが注釈にあるとおり「女性の右隣が(著者の)竹田(吉文)氏」。いかにも登山家のいでたち。丈夫そうな登山靴です。
では残る4名は誰?ということですが、私の想像は左端が河村道香、隣が叔父さんの佐伯房一郎、その横が道香の奥様マルハ、そして著者の竹田吉文、右端が大村さんではないか?と妄想。あくまでも勝手な妄想です。
私も若い頃にちょっとしたトラブルでブラジルのツニブラに大いに助けられた経験があるのでよく分かるのですが、地球の裏側でなんら駆け引きなく、場の空気を察し、あうんの呼吸で問題解決を手伝ってくれる日本人や日系人というのは本当に有難いことで…。
この写真を眺めながら「何人もの日本人がクスコで河村さんと大村さんに助けられ、大なり小なりの夢を叶える手伝いをされていらしたんだな」と思うと、頭が下がりますね。
余談 : ペルー印象記
朝日新聞もスポンサーだったようで週刊朝日の1959年11月29日号、12月6日号の2回にわたって竹田隊長の記事が載っております。11月号は登山報告を交えながらクスコを中心とした文化説明、12月号はペルー軍による手厚いサポートが詳細に書かれています。
残念ながら日本人情報は最後にほんの少しだけ。
どちらの八木さんか存じませんが、おそらく沖縄の屋宜さんでしょうかね?お花は生活に裕福な人が買う傾向にありますから、この仕事も軌道に乗れば儲かったのかもしれません。
まるで演歌歌詞のような「ふる里恋しや」な情景が思い浮かぶようです。
いろんな本に、いろんな名前の日本人が登場するわけですが、名前を見るたびにその人の人生がどんなものだったのか気になります。いまも苦労が子孫に引き継がれているとよいのですが…。
ペルーの日本人
この探検隊は若い編成で、隊員5名は23から25歳、隊長の竹田さんだけが36歳。しかし私の幼稚な人生を振り返ってみても普通の36歳というのはまだ若造で、物事の全体をつかむのが難しいことは想像容易。
こんな感じで事前学習してから渡航されたことがよく分かる文章で始まるのですが、次のような文章と共に当時の旅券(パスポート)サンプルが載せられています。

明治時代の旅券
これを見たとき、直感的に「そーか、国は民を平気で見捨てるものなんだな」と実感しました。
ここに書かれている明治の文章は「通路故障なく旅行せしめ、かつ、必要の保護扶助を与えられんことをその筋の諸官に希望す」です。
今の旅券に書かれている文章は「通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう関係の諸官に要請する」です。
ほぼ変化なし。つまり昔も今も最後は自己責任。パスポートなんてその程度の証明書であることに愕然としました。過去に何度となくこの文章で旅をしてきましたが、たまたま運がよかっただけのようです。
余談ですが、旅券の歴史については「幕末明治のホテルと旅券」という本がおすすめです。かの築地ホテルから帝国ホテルまでの流れと旅券の変遷がざっくりと把握できます。
勝組 / 負組
これも有名な話ですが、面白い紹介文が載っていたので拝借。
いわゆる「勝ち組、負け組」という言葉使いは戦中戦後の南米日系人がルーツの話です。おそらく最初はブラジル移民からスタートしたと記憶しています。
今となっては笑い話ですが、日本の敗戦から15年が経とうする1959年頃でこの調子というのは、ある意味ペルーも平和です。
私もたまに使う言葉ですが、ほんと、くだらない言葉です。特に「勝ち組」を使う時、元々の意味は甚だ勘違いの用法だったことを知ると、自分でも使っていてはずかしさを感じます。
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日本とペルーとの良好な関係でこその登頂成功ですが、すべては日系移民の文字通り血と汗と涙の結果ですよね。
移民の方々が毎日をどんな気持ちで過ごしていたのかを思うと、それはやはり子や孫のことを思っていたり、その地を訪れる日本人のもてなしであったり、日本人よりも日本人たる緊張感で生き、誰よりも手本となる行動であったりという話は枚挙にいとまなし。
関西学院大学山岳会HPを見るとどうやら隊長の竹内さんはあの世で登山されているようです。
最後にちょっと余談ですが、冒頭で「YUDAI SUZUKI Climber」という動画にふれたのですが、ルートが違うとはいえ同じ山に登ってるわけです。鈴木雄大チームは北壁、竹内隊はアウサンガテ南峰(とピコ・デ・アロス峰)。
65年で人類は確かに進歩しています。荷物はウルトラライト、食料は長期保存、移動も高速。これらを称して「便利」というのですが、ちょっと気をつけないといけませんね。何もかもが便利になったことで生まれる時間、余力をどこに振り分けるかがとても大事に思えてきました。
いまの子は0歳から育つ環境のすべてが「なにもかも便利で1人で完結する罠」になります。
そういう意味で仲間同士の登山を動画で記録に残せる時代になって当然でしょうね。登山の最中すらもデジタルでマルチタスクをこなしながらの時代へ変化したことになります。昔も今も変わってないポイントは苦楽を共にする友がいるか否か。
さすがに1枚ぐらい本書が登山記録である証を1枚。各隊員の登山日誌も記録されています。アウサンガテ登山にご興味をお持ちの方におすすめの1冊です。
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