科学とは?

ひとりごと
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巷で「汚染水じゃね?いや、あれは処理水だ」とかやってますよね。

あれがしっくりこない人がいらっしゃるというか、私自身がしっくりこなかったので、その理由を考えてたんですが、そもそもしっくりこない理由はコロナアンテナのせいです。

コロナアンテナ…

ズバリ「お注射打つ?打たない?」の話ね。

さんざん打て打てと煽った人々がいますよね。

(今でもやってるけど…)

ジェンナーの牛痘を例に出してまで、それをあたかも成功事例のごとく「打て打て」とやっていたわけですが、他方で予防接種健康被害救済制度の認定は8月末現在で4,098件で、それも氷山の一角となれば、少なくとも煽ってはダメ案件だったわけですが、その同じ人物が処理水警察な発言ですから、そらーコロナアンテナが作動して当然。

サル痘の事前学習
今日はサル痘(monkeypox)のお勉強。予備知識ゼロからスタート。

今回は「処理水に関して難癖をつけているバカ」と言われたそうです。

(リトマス試験紙みたいな人でいいことだけどね)

でね、この辺りの方々は二言目には「科学的に!」というキーワードを使うんですが、どうもこの単語を聞くこちら側に免疫がないようで「科学=大丈夫」みたいな刷り込み状態。ですよね?

そこで「科学とは?」と調べると、日本の(特に文系)大学では定義すら学ぶ機会がないといったブログ記事も出てきて「???」となり、今更ながら勉強しました。

検索結果に出てきた上位2つの「たぶん信用できる」内容をそのままメモしますと…

京都大学

ある事柄について考えたり調べたりする時、その方法が同じならば、いつ・どこで・誰であったとしても、同じ答えや結果にたどり着くことです。これは再現性という性質です。言い換えると、調べる人によって結果がバラバラだったり、同じ人でも毎回違う答えが出てきたりするようなものは、”科学的”ではありません。別の人が結果をもう一度再現できなくてはならないのです。コツや勘のようなものは、誰にも説明できず、再現性が無い限りは科学的ではありません。

2つ目は、原因と結果の関係がきちんとあるということです。これは因果関係という性質です。例えば、天気予報を完全に的中させることはまだ不可能ですが、気圧や気温、湿度によって天気が決まることはある程度はっきりしています。分かる範囲の法則を使って天気を予測するならば、たとえ完全には当たらないとしてもそれは十分に科学的なのです。あるいはスリッパを放って明日の天気を完璧に当てられる人が現れたとしても、スリッパと天気の間に関係がない限りは全く科学的ではないのです。

しかしながら、科学的なものとそうでないものの間にはっきりした境界線があるわけではなく、あくまでも程度の問題です。どのあたりが科学的でどの部分は科学的でないか、理由つけて皆が納得できる説明をすることこそが、まさに科学的な態度だと思います。

“科学的”であるということ

この「再現性」という単語は勉強した記憶があります。

 

東京薬科大学

確かなことと確かでないことの狭間

観察、観測あるいは実験の結果が得られると、その結果を解釈して、ある可能性が支持されたり、支持されなかったりする。しかし、何か一つの結果がでたことで、あることが決まってしまうことはまずない。多くの結果が得られたあとで、次第に何かが確からしくなっていく。つまり、研究の最先端では、確かなこととまだあまり確かでないことの狭間が存在する。

研究者によって結果の解釈の仕方が異なることも良くある。例えば、最先端の実験に関しては、同じ結果に対して、異なる解釈がありうる。観察、観測あるいは実験結果から、ある事柄が確かめられたと考える研究者もいれば、まだ不十分であると考える研究者もでてくる。

RNAワールドに関して言えば、RNA鎖がRNA鎖を複製できるということはRNAワールドの一番肝心のことが確かめられたと解釈する研究者もいる。他方で、RNA鎖の複製が起きたとしても、複製の材料となるRNA単量体がどの様に初期地球でできたか不明だと考える研究者もいる。

研究者の理解は変わる

こうした、まだよくわからない点に関して、研究者は新たに実験や観察、観測をすすめる。科学者の間で異なった理解も、新しい観察、観測あるいは実験結果がでることで、どちらか一方を支持する研究者が増え、やがて新しい体系の一部となっていく。こうして、科学の体系が進化していく。つまり、科学の体系は何か固定しているものでは無く、常に変わり続けている。これが科学である

科学とは:生命の起源を例に|東京薬科大学 【CERT】
「CERT」は、東京薬科大学の研究者たちが研究の魅力を様々な切り口で伝えていくサイエンスコミュニケーションサイト。

 

この2つの大学の情報で十分だと思います。

勝手に2つの文を足して「科学的なものとそうでないものの間にはっきりした境界線があるわけではなく、確かなことと確かでないことの狭間。それが科学である」ということです。

 

いちばん平易な解説だと思いますが、これについて徳を積まれた先生が解説されると納得も早いのですが、経験の浅い若造、専門家ではない有名人、御用学者、オンラインサロンで人を集められるインフルエンサーが軽々に口にするので騙されるべくして騙されているのが現状だと思います。

そして武田先生登場。この動画は本当に貴重です。

この動画を見終わると、おそらくだれもが原子力の安全性に関する理解は科学的ではなく社会的にそう決めてあることがわかります。

それが原発ビジネスの世界基準であり、スタート地点の話でイロハのイ。

その上に成り立つ運用ルールは科学的でも非科学的でもなく、社会的ルールとして許容できるか?それとも許容できないか?というお話。

Japan Announces 1M For Its Fishery Industry Amid China's Seafood Ban Over Fukushima Water
TokyocontinuestofindwaystoboostitsfisheryindustryafterChinaimposedablanketimportbanonitsseafoodproductsoveritsdecisiontoreleasetreatedradioactivewaterfromtheFuk...

つまりIAEAがお墨付きを出せば安全という話でもないわけです。それも社会的許容量という、まさしく「確かなことと確かでないことの狭間」で社会的に決めた話。

 

学校の理科や大学の一般教養知識レベルの人が知ったような面で科学という言葉を多用して他人を罵ることは人としてクズな行為ということになります。

こうして原発に関する情報を知れば知るほど、この発電方法を実行した世代がいかに「今だけ、金だけ、自分だけ」であったかというのがよくわかります。最初はそうではなかったかも知れませんが、今ではそう見られるのが自然。

もちろんそのお一人が武田先生だったりしますが、やはり普通の人間であれば間違いを反省し軌道修正するはずが、いまの科学者は「ホントの話をすると研究費が出ない」のでダンマリを決め込んでいて、その仕組みは政府のもとで動いているので、この政府のあり方を変える必要があるということも至極当たり前なお話です。

正しい情報を知りますと、この問題が50年程度のロードマップでは片付かない察しがつきます。

そして汚水(タンク)がしばらく増えようが、その方法を選択した限りは、その半減期からして保管期間を最低100年ぐらいのスパンで捉え、そこから処理して海水へといったことはあり得る気がします。

(もちろん話題にしていない核種問題がありますが…)

 

ということで結論から言えば、これは汚染水であり、そもそも安全か危険かの明確な線引きはなく「社会的に耐えられない」とか「社会的に受け入れる」という曖昧な社会的ルールで運営されている代物と分かれば、これに賛成しない人がいても当然だと思います。

人は見た目のスペックは一緒でも中身は生まれながらに体の弱い人もいれば、強い人もいます。勘が鋭い人もいれば鈍感な人も。だから十把一絡げな話で論じるのが難しくデリケート。

 

詰まるところ科学者に限らずですが、歳を重ねるごとに自分の持つ情報精度を上げる努力をしていないと、下に続く若者はすべて道を間違えます。

武田先生は時折「それは社会的には正しい」という表現をされることがありますが、確かにそういった事象が増えています。だからといって「人として間違い」とも言われません。

肯定も否定もされない。その部分は人によって許容量も違いますから突き詰めると、その人を追い込んでしまう会話になりかねません。それと似て「科学的に正しい」という表現も言葉の意味を理解した上で使うと、人を追い詰めたり罵倒することは起きないわけですが…。

正しく理解すると、その地域の生産物を食べる、食べないを他人に聞くまでもなく、パフォーマンスも必要もなく、原発の科学はまさしく京都大学の「どのあたりが科学的でどの部分は科学的でないか、理由つけて皆が納得できる説明をすることこそが、まさに科学的な態度」なんですが、「汚染水」と口にしただけで首相が農水大臣に謝罪撤回を指示をしたなんて非科学的なことをするから逆効果。

すべてが間違った方向へと調整されることになります。本当に覆水盆に返らず。

誰かさんではないですが、この手の話は「定義と歴史が大事」ということですかね。

 

武田先生が誠実で、その説明が正しいと仮定してまとめると、つまり「科学=大丈夫」ではない。

科学というのはその程度のもの。だからこそ科学者は謙虚に、ありのままの情報を公開してくれないと、なにも知らない庶民は信じきって行動し、間違った決断を下していることすら気づけないことになります。だから「科学者」や「科学的」、はたまた「非科学的」といった言葉に操られない自分軸が必要ですね。

こうして頭を整理すると、必要にして十分な京都大学の文章すごいな。

科学的なものとそうでないものの間にはっきりした境界線があるわけではなく、あくまでも程度の問題です。どのあたりが科学的でどの部分は科学的でないか、理由つけて皆が納得できる説明をすることこそが、まさに科学的な態度だと思います。
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