戦時下介護は大変の巻

介護
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今年は年始早々に親の健康トラブルで介護時間調整が一気に難しくなり、いわゆる介護沼にはまっておりますが、今日は介護で気になっていることのメモです。

いつもなら付き添って病院へ行きますが、一緒に行くことすら難しい容態なので息子1人で薬だけ受け取りのお願いに病院へ行きました。これもかなり時間をとられます。

(病院をハシゴ)

それらの医師が口を揃えて「そろそろ施設入所の検討が必要だね。あなたはあなたの人生があるし。あっという間に時間が経つから」と声をかけてくれます。

おそらく気遣ってのことで、言われてることはその通りだと思います。ありがたいことです。

が、しかし…

この労りの言葉ですが、どの病院の医者も100%同じことを言うんですね。1人として私の介護を肯定する人はいません。決めゼリフが「施設入所のオススメ」。

雑に言うと「親をとっとと施設に放り込んで、自分の人生を楽しめ」ということです。

意図は理解できますが、本当にそれでよいのか?

これが本日のネタです。

「介護しているお前がおかしい」という社会からの熱視線

いまの社会はこれが普通です。すでに完成済。

親は自分では出来ないことが増えたから子がサポートするわけですが、私なんて独身だから余計にそういった目で見られるんでしょうね。

例えば実家のご近所さんと普通に挨拶をします。しかし微妙な距離感を察知できます。わかりやすく言えば、用事がなければ近所の方から私には話しかけてこない空気。 

実家に入りびたる時間がすこしずつ増え、中年の独身が真っ昼間に買物へ出かけたり、普通は働きに出かける時間に普段着でウロウロしていると、外から家の中の事情は分かりませんから表層的にしか判断できないことですから仕方ないですが。

(いまも親の排便を片付けたばかり)

そして私も両親のご近所付き合いに付き合ってる暇はない。だってリモートでどんな状態でも仕事をしてますから。真っ昼間に呑気に買物をしていても、歩きながら客からの入金確認をスマホでしていたりします。

私の目に映るご近所さんには、おそらく私より10歳ぐらい年上の方がいらして、しょっちゅうゴルフに出かけて自分の人生を楽しんでいるように見えますが「この方のご両親は幸せに暮らしておられるのか?施設で暮らしておられるのか?」なんて思うわけです。

いつも思うことですが、この社会を容認したら「自分も人生の最終盤は施設に放り込まれて終わるだけ」です。家族と離れて施設で死ぬとなれば孤独死となんら変わりナシ。

が、しかし…

 

ぶっちゃけ働きながらの介護は不可能に近い難しさ

なんとなく溢れる情報をたどりますと「介護離職はよくない。自分の生活もある。お金もある程度必要。仕事は辞めてはいけない」1択の論調。

これもすべて事実です。しかし、あらためて言葉を分解すると結論は「それ以外に生きる選択肢がない」だけです。昔とちがい日本はモノづくりの国ではなく、賢い外国人は1年で永住権をもらえる時代。

仕事を手放したら人生は「the end」。

私はコロナ以前からリモートワークな動き方なので辛うじて成立していますが、普通だとやはり施設に丸投げ以外に手がないと思いますが、さて、本当にそれでいいんですかね?

 

世界は利己主義のピークに到達している

独身という身もある意味で利己主義、自己中の極みであることは一旦棚にあげときます。

(ごめんね)

たまたま拝見した動画がお久しぶりの伊藤貫さん。ジェイソン・モーガンさんとの対談です。親の介護中にコレをイヤホンで聴きながら「ハッ」としました。

31分あたりからの話ですが、次のような単語が並びます。アメリカではそれが超!大事だ!と。

自己評価、自己主張、自己充足、自己実現

私がわりとたくさん浴びてきた単語は自己実現です。

これに関して伊藤さんはこんな言葉を好きなやつは物事を自分の好き嫌いで判断し、自分の利益を追求しているかどうかで判断してるんだし、価値基準の堕落でね?と一刀両断すると、モーガンさんが「私もそう思う」と介錯して、みごとなオチで大笑いしました。

つまり今の日本、今の世界は「我が我が」の世界で満ちているということです。

(ビバ!利己主義!)

別の言葉に置き換えると「個人主義」とも言えますが、とにかく「俺が、私が、自分だけよければok」な時代。例えば「都民ファーストの会」という地域政党がありますけど、昔の日本人なら絶対に反対したであろうネーミングだと思います。

(どこまでも我を通すことを美化する社会)

話を戻しますが、今の大学教授は半世紀前と違って「教養がない」とも語られていました。あまりにもバッサリと切り捨てごめんの会話が爽快でした。教養がないということは、つまり「下品」ということです。

モーガンさんはアメリカの大学は堕落の元になっていて、日本人が想像を絶するほど腐敗している。」と断言されていますが、確かに思い当たる節があります。

つまりね、まがいなりにも「自分の限られた人生時間を使って親の介護をすることのなにがわるいのさ?」ということです。私は独身ですから関係ないですが、仮に結婚して、子どもがいても今の社会を続けると、晩年は親のあなたも施設に丸投げされ、その子も施設に丸投げ、孫も丸投げということを末代まで続けるということです。

簡単に言えば、自己実現モノポリーは「子どもに施設へ丸投げされる」がゴールです。

しかも、もうすでに現段階で他に選択肢がない状態になっているんですね。だから親の介護を情だけで動いて物事を見誤るとミッシングワーカーなる謎のキーワードが爆誕するわけです。しかしそれを議論したところで問題は絶対に解決しない。

すでに選択肢がない状況ですから解決するには家族が親の介護をしても生きられる社会環境を整える必要があるということなんだと思います。しかしまったく社会環境が整ってない、一択の状態で抗うしかないのが現状です。政府は分かって放置しているはずです。

(そして介護は団塊世代リタイヤのこれからが本番という恐ろしさ)

 

面談形式で自分を紹介する「自己表現」の試験が行われることに

1時間40分の動画があっという間に感じましたが、その動画を聴きおわって「自己実現」とか「自己主張」とか、確かに就職面接の採用側も応募側も、よりよく魅せようと「だまし合いだよな」とか「自分もそんな時期があったな」と思ってツイートを見ていたら驚きの高校入試を発見。

中学校教育の段階で自己主義や個人主義の種を植えてるわけですから、そらー大卒まで合計10年も洗脳したら社会に出て自己主張は上達しますし、「老人は集団自決しろ」と聞いても違和感はないでしょうね。

家族という概念すら希薄になり、現時点で低出生率のワナが形成済となると…

 

やっぱり「今は第三次世界大戦の最中かもしれない」という仮説

ところで、いまのタイミングで戦争の話をすると、普通は次のように考えると思います。

たとえば「ウクライナとロシア問題も1年が経ち、西側諸国はウクライナへ兵器を送りまくってるけど、実質NATOとロシアの戦いって誰もが薄々気づいてて、それでも西側全体にはウクライナを応援する空気が覆ってる中でロシアが核をちらつかせることで第三次世界大戦へ向かってるんじゃないか?」という感じ。

もうひとつは「中国の軍備増強や台湾有事から日本が巻き込まれることを懸念して日本も防衛費増強とか言い出して、はだしのゲンとか第五福竜丸が教科書から隠されちゃって、なんとなく軍靴の音が忍び寄ってね?」という感じ。

たぶんこの2つが有力で、実際にありえる話だと思います。

ただね、ウクライナニュースから漏れ聞こえてくる「ドローン攻撃」という話。そして「キエフに来てみた」という動画。人のような動きのロボット動画。それらを見ますと、戦争の方法が変わっていると予想できますよね。

別の言い方だとNATOもロシアも新しい戦争方法を実践で試してる最中だろうと思います。古い戦術も交えながら。

しかし考えてもみれば、核兵器もしかりですが、本当に目に見えてジェノサイドのようなこと、つまり20世紀型の戦争をすると、それが簡単に可視化されたり、加工捏造されるのも事実。なにひとつ正しい情報なんてない!信じられるのは自分と家族だけ!みたいなことだと思います。

 

いまの日本は戦時中なのかもしれない

そんななか、西側諸国の庶民に起こっていることに目を向けると超過死亡が爆増してます。ほぼ各国共通です。異常な数であり、目に見えているのは氷山の一角で、本当の実数が掴めていないというのが事実かもしれません。ある意味で戦死のような数です。  

そして光熱費や食費はうなぎ登り。原因はウクライナ問題かもしれませんが、それにごまかされている気もします。日本はこの状態で増税やインボイス制度スタートと言っています。

時折書いてたので詳細は省きますが、いまの日本で日々起こっていることは結果として同じ民族同士での殺し合いで、出生率も80万人を割って「ちょっとマズイかも」というタイミングで誰でも知ってるインフルエンサーが「もう特定技能とかごまかしてないで、はっきりと移民を受け入れましょう」と言えばそれに流されるSNSの声。

その発言に違和感を覚えない感覚のズレが気になっています。

つまり、もう現時点で民族という概念が壊れてるんですね。

別の言い方だと「グローバルに行動できる人が増えた」ということです。それはとてもよいことですよね。異文化交流であれば。

しかし同時に結果として「アイデンティティなんて手放しゃいいじゃん」という人も増えると国家の意味はどんどん薄れ、いわゆるニューワールドオーダーな方向へ進みます。

同じ国に住んでいながら、同じ日本人でありながら、まったく違う道を歩んでいます。そういった二極化が進んでるように見えます。

商売相手が「国内or全世界」で比べると、圧倒的に「グルーバル人材は稼ぎがよい」話です。

そうすると日本から若者が海外へ出稼ぎに行くのも当たり前。すると短絡的に「より良い大学へ行け」となり、今では大学を2つ3つと複数卒業も珍しくない。

この話のオチにお気づきですか?

いま世界で同時に起きていることがグローバリズムの全体主義と仮定すると、国家は1つ、国境は不要。つまり戦争なんて起きっこないはずです。でしょ?

One Worldですから。

それなのに世界のあちこちで庶民が苦しむ現象が同時に可視化されている。日々増えている。つまり、いまは日本のみならず、世界は第三次世界大戦の渦中かも?という話です。

全体主義にうまく迎合する人が残り、それに反対する人は叩かれ、反対しない・できない人は静かに死んでゆく。

そういう戦術の戦争です。

もっとも憂うべきは、まったく気づけず「反対しない・できない人々」です。世の中がおかしいことは理解できるんだけど理由は分からずモタモタ…というやつ。

仮に戦争中でないとしても、私の根拠なき肌感覚として有事が起こる前のザワザワとした調整期間、例えると真珠湾へ突っ込まざるを得なかった、そういう方向へ誘導されているような、ウクライナ同様に何かのシナリオ、台本に沿って動いているような、そんなきな臭い空気を感じます。

 

まもなく日本人が尊厳を取り戻す大事業がはじまる

プロジェクトXというテレビ番組で「富士山レーダー、瀬戸大橋、黒部ダム」あたりの事業内容に出てくる人たちはまさしく「日本をよくしたい。誰もが携われる仕事ではない。名誉ある難題に取り組んだ人々」ですが、それを見て「へー、確かにすごい」と思えたのは短期間でした。

あの番組は失われた10年目からスタートし、15年目で終了しました。

そこから18年が経過した今、社会は悪くなる一方に感じます。

仕事は目に見えないもの(IT)へ変化し、世界は頼んでないけど「ワンワールド」なグローバリズムへ進み、日々の生活で笑顔が増える気配なし。

はたらけど、はたらけど なおわが生活楽らくにならざり じっと手を見る

もちろんコツを掴めば生活が改善することはある程度の歳になれば分かってくるはずです。気付くのが早いか遅いかだけ。

結論から言えば、日本はこの30年間で投資しないと生きられない社会に変化させながら、同時に非正規労働者を4割に引き上げ、同じ日本人同士でケンカしてるような構図で、昔の日本人だとおそらく忌避したであろう買収ホイホイの人だらけです。もっと過激に言えば上場して外資比率が勝ったら売国奴企業完成です。

それを「上場企業だから安心」といって買物するバカを減らさないとダメという話。

それでも社会は回っていますが、それで本当にいいのか?

いまは少子化が話題ですが、このままいけばいま生まれている子は「金の卵」と思っているとお花畑星人。順調に減ると、確実に声が届かない世代の連続で、成長しない社会が続き、どんなに早くても半世紀は我慢しないといけない構造ですから。

つまり「このままではあまりにも悲惨すぎる。日本に生まれるすべての人が生きやすい環境を用意せずに死ねるか!」という、前代未聞の、おそらく歴史上最大の世直しが待ち構えてるような気がしています。

(ていうか、そうならないと、ちょっとマズイ)

 

そろそろ「occupied japan」 を終える準備と覚悟が必要かも

このライターはご存知ジッポー。ちょっと印象深くて買ったものですが、いわゆるベトナムジッポーと呼ばれるデザインの日本版の妄想復刻版です。

オマージュによるレプリカのようなもの。

ディアゴスティーニ ジッポーコレクション 2018年3月18日 第81号

敗戦直後の日本でウロウロしていたアメリカ兵も、後のベトナム戦争同様に日本人の彫金師にライターを刻印させたものがいまでもたまにヤフオクなどで売っていますが、そのデザインを見ながら当時に想いを馳せます。

(ほとんど偽物だけどね)

手にしているのは印刷ですが、同じコンセプトと思われるOKINAWAというのもあります。デザインはまったく一緒で日本地図が沖縄地図へ置き換わっただけです。それ以外の違いは沖縄デザインは彫金です。

このライターを見たときに直感的に感じたことは「日本はこの絵の状態」ということです。

それが右下の「MEDA IN USA」。戦後と今との違いは進駐軍が極端に減っただけです。進駐軍が歩き回れるエリアが小さくなっているだけです。でしょ?

このライターを見たときカチンときました。なぜなら「MEDA IN USA」の文字が「日本はアメリカ人が作った」と言われてるように見えたからです。露骨に。

そして沖縄ジッポーのデザインも同様です。「沖縄はアメリカ人が作った」と。

しかし別の視点で見ると日本人は摩訶不思議な民族で、薄々それに気づいてながらも臭いものにフタをして、沖縄を返還させ、全土に新幹線を走らせ、車や電化製品を売りまくり、なんとなく敗戦国ではないような雰囲気を漂わし続けること78年。

国土は残りましたが精神性や魂は大破しました。

いまは本当に転換点に感じます。

〜・〜

介護からずいぶんズレちゃいましたけど、しかしまぁ、とにもかくにも今の時代に居宅介護を成立させるには自分が自立していないとムリな話で、なにがしかの、有形無形にかかわらずモノを売買しないと生活できません。

(昔もそうだけどね)

なかなか大変ですが、できるとこまで頑張ってみようと思っています。

(頑張るというより踏ん張る感じ)

挑戦内容は自立ではなく自律。

(もちろんお財布との相談ではありますが…)

一般的には親を施設に預けて働くべきだと思いますが、さりとて私が両親の介護に手を抜き、近い将来自分も福祉のお世話になると、もれなく「もっと外国人労働者を」とか「僕たちが大人になってもらえる年金なんて、せいぜい2、3万」とか「ベーシックインカム奴隷」みたいなことは目に見えています。

人口が減りながら、貧困層が増えながら、給料が減りながら、社会福祉にできるだけ依存しない、逆に抗うような介護はなかなか大変ですが、そうしないと自分が日本人として存在していないような、堕落した、今産まれる赤ちゃんに申し訳ない感じです。

(ちょっと心の居場所が気持ち悪い感覚)

親として「子どもに迷惑をかけたくない」気持ちも分かりますが、それもまた「金だけ」の世界、「利己主義」の世界を助長する原動力なわけです。

子も「自己実現」を盾にとると、もっと「お金が必要」の世界、「自分さえよければ」の世界を助長する原動力です。

そんなことよりも、親は「悪いけど、歳くったら誰でも体が不自由になるから、準備や心構えはしてるけど、その時は頼むわ」と遠慮なく伝えられ、子は頼まれなくても「そんなの当たり前だろ」と言える、つまり普通の会話が普通に成立する社会に戻す必要があると思うんですね。

いまさら「教育勅語の復活を」とか言う気はないですが、確かにいいこと書いてあるんですよね。ということで、戦時下での介護は大変の巻でした。

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