遥かなる地球の裏側に夢を馳せた人々 南米パラグアイ在住日系移住者の声

ありがたい一冊
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最近の読書はもっぱら南米ですが、本日は南米移住で最初に興味を持ったパラグアイ移住者の声を収めた「遥かなる地球の裏側に夢を馳せた人々」についてのメモです。

著者の仙道富士郎さんの前職は山形大学の学長さんらしく、長年北海道・東北地域を中心に医療分野に携わっておられる方のようで、私の父と同年齢。今も現役だそうで恐れ入ります。

その方がJICAの仕事で出会ったパラグアイの思い出を本に残された内容です。

このての本を漁りまくると少しずつビジュアルデータもインプットされますが特別珍しい写真は載っていません。類似情報を探せばどこかで見たことがあるような写真。しかし文章は吸い込まれるように一気に読みしました。

ざっくりとした中身は「①移住者20人へのインタビュー、②詩人伊藤勇雄、③山形県出身者座談会」の三部構成。メインは当然20人。詩人伊藤勇雄については普通なら名を知られずに終わる人生だったのかもしれませんがNHKが10年毎に移住者を追いかけた番組もあってずいぶん知られるようになったお方で「君の夢が大きければ大きいほど、君の偉大さを示す」という金言を残されているお方。

ユートピア研究
『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

この本とまったく関係ないことですが20代に航空券を手配していた頃、時折アスンシオン行きチケットを手配したことがありました。もちろんパラグアイの首都ということは知っておりましたがいつも「なんでこんな場所に行くのかなぁ。やっぱイグアスの滝かなぁ」ぐらいの知識でしたが、この歳になってようやく「そうか、移民ビジネスだったか」と思ってみたり。

さてと…

中身は仙道さんの質問に移住者が答える対話形式で進みます。インタビュアーは元大学の学長さんですから聞き上手なことが移住者の返答から伝わってきます。

日本各地からパラグアイへ直行した方もあれば、紆余曲折あって辿り着いた方もいらっしゃるわけですが、本書にまとめられる段階まで粘ってきた結果ですからどの経験も中身が濃いですよね。人生が深いし、経験が大きいし、言葉が重い。なぜか日本に住む日本人より日本人的。

あえてドコのダレ兵衛なんてことには触れず、私の琴線に触れた金言の数々。

「人に感謝することを忘れないこと」
とても当たり前なんだけど忘れるんですね。人間は

「10年かかった安定した生活
石の上にも10年ですね。0を1にするにはそれぐらいの年月が必要

「電気が入ったのは1984年(昭和59年)」
ロス五輪の年。それだけの差があるわけです

「今日も明日もマンディオカ」
今の日本人は毎日同じものを食べないですよね

「日本の援助のおかげです。円も強かったし」
やはり円高は国力ですよね。世の中なにごともタイミング

「パラグアイの言葉だけではパラグアイ人になってしまいますからね」
深い。やはり言葉はアイデンティティとして大切にしないと

「東京には移住花嫁を教育する学校があったそうですが」
初めて知りました。国営か、国策に乗った民間企業のお話か

「奥さんたちは受け身で、男の人がやりなさいと言わないと動けない」
一昔前のお母さん像を感じます。いまは違うと思いますが

「人造りセンター」
パラグアイのお話。日本ではとっくに死語と感じる言葉の響き

「勇気を出せばなんとかなる」
言葉の壁を打ち破るために間違ってもいいから使って一歩を踏み出せという励まし

「日本の農協は機械を買わせて、借金させて、新しい機械を作って、また借金させて」
この一文を本に収めたことが爽快。誰もがうなずくと思います

どの言葉もいろんな意味で刺さります。

中には棄民で揉めたボリビアからパラグアイへ移住した方のインタビューも載っているのですが、その方の言葉も刺さりますよ。

 

「入植して2-3年は現金収入ゼロ」
会社を始めると最初はこんな感じですよね。

「今の子どもみたいに金かからんかったです。ネット、携帯、車みんな必要です」
今の子どもはお金が掛かりすぎますよね。幼児でGoogle HomeやiPadですから。

「広大なパラグアイから見たら日本はすべて小型」
こういう言葉がスッと出てくる感性が私にはない。人生の残念な部分。

 

とにかく想像力を膨らまして読みました。どの言葉も興味深い内容でした。

かなり残念に感じる文もありました。

「パラグアイの大豆は90%以上が(遺伝子)組み換えです」
「ラウンドアップ・レディという薬品をかけたら、他の草は全部行っちゃう」

この2行は本当に残念な文と感じます。

移住者は原生林を開拓し、大自然に暮らし、苦労が多かったと思いますがどちらの文脈も不自然で人工の極み。地球上のどの国に住んでいても際限のない消費や利益を求め続けると不自然なことに手を染め始めるというのは金融資本主義共通にして最大の課題と感じます。

 

どうもパラグアイは土(壌)に恵まれた国のようです。日本から持参した種子と知恵も役立った。農業や畜産という一次産業でも勝負できた。開墾は大変でも何かを成し遂げることが出来る場所であったことが救いですね。その他地域の移民と似て非なる境遇。

この手の本は最後まで残った者で構成されるので結果として成功事例のような展開になります。ぶっちゃけ「日本人同士で叩き合い、ののしり合い、叩き潰しあって、蹴散らした結果もあるよな」と妄想をしながら読みました。

とあるお方の「まず生き残れ。儲けるのはその後だ」みたいなことですね。人間ですもの。

なかなか読み応えのある内容で楽しめました。「遥かなる地球の裏側に夢を馳せた人々 南米パラグアイ在住日系移住者の声」とてもおすすめの一冊です。

さて…

最後に壮大な余談ですが…

この当時の移民船として使われた「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」「さんとす丸」あたりの船名は聞いたことがある人も多いと思います。かつての大阪商船、現在の商船三井という系譜です。

しかしよく分からなかったのが「ルイス」「ボイスベン」「チチャレンガ」「テゲルベルグ」「チサダネ」という船名。なかでも気になっていたのが「チチャレンガ」です。この本では「チャチャレンガ」と書かれていました。

この当時を知る日系移民の日本語情報にはしょっちゅう出てくる船名で「これだけ南米で日系社会が発展したんだから誰か日系人が横文字で書き残してくれてるだろう」と思いきや横文字表記が全く検索に引っ掛からず情報にたどり着くのに難儀しました。

ナゼかってだってスペルを知らないんだもの。

チチャレンガってね、わたしの感覚だと「CHICHARENGA」とか「CICHALENGA」でした。

調べると、どうやら元々はオランダ企業の貨客船運航会社でジャワ界隈(今のインドネシア付近)で運行していた「NV KoninklijkePaketvaart-Maatschappij」という会社と外航を広く網羅していた「Java-China-Japan Lijn(JCJL)」が合併して「Koninklijke Java-China Paketvaart Lijnen (KJCPL) 」という社名になり、それが後に「ROYAL INTEROCEAN LINES」に社名を変えてアジアパシフィック地域での貨客船運行にハッスルしたそうです。オランダ語の「Koninklijke」が英語になると「Royal」なんだそうです。

近代になると貨物はP&Oネドロイド経由のマークスラインとなり、客船はP&Oクルーズですから今ではカーニバルコーポレーション傘下です。かなりザックリとした話ですが。

さて、その5隻のローマ字表記ですが…

チサダネ号 (Tjisadane) 9,228t
チチャレンガ号 (Tjitjalengka) 10,972t
ボイスベン号(Boissevain) 14,134t
テゲルバーグ号(Tegelberg) 14,281t
ルイス号 (Ruys) 14,285t

Royal Interocean Lines - Boissevain, Ruys, Tegelberg, Tjitjalengka, Straat Banka, Tjiluwah, Tjiwangi
Ship profiles, history and trade routes of the Royal Interocean Lines ocean liners Boissevain, Ruys,...

こちらが気になっていたチチャレンガさんらしいです

どうやら下の3隻は姉妹船設計のようですが、とにかく気になっていた「チチャレンガ」情報を漁ると元々「Java-China-Japan」を運行しておりバリ島、ジャワ島、シンガポール、マレーシア、フィリピン、香港、日本を行ったり来たりの船だったそうです。戦争中は病院船としても使われていたらしいのでこの船で亡くなった方も多かったことでしょうね。その船でジャワからアフリカを経由して南米へ到着したという移民船です。

確かにファンネルに「JCPL」の文字が読めます。

当時の貨客船1万トンで長い航海はなかなか大変だったでしょうね。外航の荒波では必ず揺れを感じる大きさ。更に探し進めると「RIL post」という機関誌(小冊子)情報に辿りつきますが、それを眺めていると動物(キリン、サイ、シマウマetc)、ボート、資材、車などと一緒に富裕層から移民まで、ありとあらゆるモノとヒトを載せてカネを動かしたことが分かります。

この会社で働いていた(たぶんバイリンガルな)スタッフが写る日本オフィスも紹介されていました。そこに写る従業員は移民の行く末を知って追い出してたことでしょうね。きっと。

この船のキャビンプランが載ったパンフレットも見ましたが、独特の構造をしてますね。昔の貨客船によく見るスタイルですが詳しいことは知らないので眺めただけで終わりました。1954年の香港映画「Malaya love affair(马来亚之恋・馬來亞之戀)」のロケにも使われたようです。

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上のサイトデータなどを見始めると、その貴重な情報内容に夕食も忘れて見入ってしまいクリックが止まらなくなり日付は翌日になりました。とても貴重な歴史の1ページです。アップしてくださった方に感謝です。

たくさんの物語を生んだ貨客船チチャレンガ号

いま振り返ってこの時代の空気を妄想するに、国策として民間企業と結託して日本人をせっせと外国へ追い出す時代があったということです。今はせっせと外国人を入れてる時期ですが、国や政治家は平気でそーゆーことをする全く信用できない別世界の獣です。

その当時、なけなしの金をはたいて、なかには借金までして移民した人々から吸い上げた利益が時代を経て大型客船や貨物船運行につながっているというのも歴史を感じます。感慨深い。

最後に余談の余談ですが…

「チサダネ号 (Tjisadane) 9,228t」と「ボイスベン号(Boissevain) 14,134t」はトリスタンダクーニャ島発行の切手に採用されてる記事を見つけまして、検索すると確かに発見。こんな島があることを初めて知りました。しかも恐るべしBBC、番組で簡単にお勉強できます。

移民船としての歴史もさることながら、この当時の人々の通信手段は「お手紙」ですから、船便で遠くから届く便りを心待ちにしたり、残念におもったり。

この切手は1961年頃発行なので約60年前の話とはいえさほど昔話でもなく、さりとてその半世紀で世界は激変し、今や25万トンのクルーズ船が走る時代。

とてもおもしろい知識を得る時間となりました。もうお腹いっぱいです。

奥アマゾンの日系人・ペルー下りと悪魔の鉄道
10月は古本を大量購入して読み漁っていたのですが介護周りが忙しすぎて手にしたどの本も途中まで読んでは止まりを繰り返していました。月が変わり11月になってついに1冊読み終えました。それが「奥アマゾンの日系人」という本。こんな凄い本を残した方がいらしたんですね。
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