人生は儚い。壊れるときは一瞬。 

老人社会
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8.11に伯父さんの体調が悪いことをメモしましたが8.21に亡くなりました。

末期ガンの伯父さんを見舞い自分の余生を考える
本日は私のリアル伯父さんを訪問。それは人生を終える時が近づいており、自ずと親類が集い、各々が覚悟を決め、タイミングを見計らって逝く準備ですが、利用している病院の在り方も大変なようで、色々と考えさせられました。

まぁ85歳ですし大往生でしょう。

タバコは吸わなかったと記憶していますが酒は浴びるほど飲むタイプだったそうです。あまりにも悪態をつくので私の父親がなだめに行くほどの酒豪だったそうですが、そんなことが出来る時が人生のピークです。

そうは言ってもド田舎暮らしで兄弟が多いので苦労の絶えない人生だったと聞いております。

以前メモした通り入院環境が少し心配でした。

既に地域包括ケア病床しかない山間部の病院で末期ガンですから身近な家族はどうすべきか悩んだと想像します。私が見舞いに行った時には既に利用期間が1ヶ月を過ぎていましたから残された期間で大きな病院に移すのか、人生を終えるのか決断を迫られたに違いありません。

いやぁ…それにしても死ぬときは一瞬ですね。悲しむ隙すらありません。

私も詳しいことは知りませんが大工の棟梁としてコテコテの日本家屋を作る凄腕を持っていたらしいので高度経済成長期には余裕のある収入や生活が出来ていただろうと推測しますが、いまは吹けば飛ぶような住宅でokな時代ですし錆びゆく腕をもてあましていたことでしょう。

聞くところによると私が見舞いに伺った2日後に大部屋から個室へ移り、意識が朦朧として自分の居場所や存在を理解できなくなったそうで、会話が成立するギリギリのタイミングで見舞いに伺っていたようです。

モルヒネの後で使う鎮痛剤もいまひとつ効き目が薄く、少し苦しみの表情で逝ったのが家族としては残念な様子でした。

でもね、昨日死体と対面してきましたが、まぁ穏やかな表情でした。

でね、この靴の数。

凄まじい親戚の数。

初めて知った事実。

靴だけて30足以上ありますが、この後も続々と親戚が挨拶に訪れたそうで、どんだけ来ても昔の家屋なので玄関先は余裕ですが…。さすがにわたしの知らない人だらけ。改めて考えると凄いことですよね。全てが同じDNAの延長です。私の家系が途絶えても他で続くという素晴らしいシステム。

こんな時でも冷静にリサーチするのが悪い癖ですが、面白い事実を発見!

この靴を見ればわかると思いますが、小さな子も来ていました。

家系図からするとひ孫でして私も誰の子がどの子かさっぱりチンプンカンプンな状態だったのですがここでも日本の縮図を垣間見ることになりました。なんと私を含めて35-50歳が全員独身で子ナシ。玄関先の小さな靴は全て34歳以下か51歳以上の夫婦の子です。これって凄いことですな。

結構リアルな日本を見た気がします。

85歳で終えて旅立った伯父さんを思うと次は我が親の番。

人生は儚く壊れるときは一瞬です。 

葬式から戻る道すがらツラツラと考えていたのですが…

今回はスペースの都合で死体を自宅に置くことができませんでしたが、幸いにも家から徒歩3分の集会場に安置できました。これを全ての親戚が目にすることが出来ました。死を身近に感じることが出来たのが幸いなことです。

令和元年でも昭和生まれの先人が身を以て死に様を披露してのフィナーレ。

ひ孫ちゃん。名前を知らず…ぷにゅぷにゅ感がたまらんですな。

このぷにゅぷにゅの赤子も死に向かって生きはじめたところです。

今回亡くなった伯父さんが元気だった頃の手元写真から渾身の1枚を叔母さんにプレゼント。叔母さん(に限らず家族)は看病に明け暮れて思い出を残す余裕なんてないですから多少は喜んでもらえたと思います。映像も残しました。声も残っていますが既に骨です。

人生は儚く壊れるときは一瞬です。 

久しぶりに死を身近に感じましたがよいことですね。人はいずれ死にます。宗教を信じようが信じまいが死ぬことに変わりナシ。だからこそ楽しく、わくわくドキドキするような人生を送らないともったいないと感じる1日でした。

それにしてもね、オジサンのリアル伯父さんの家ってマジで山奥。

そんな場所でも全国から続々と親類が集まりました。令和生まれのひ孫も登場しましたが「これにて昭和終了」の鐘が鳴った感じです。平成が終わるよりもインパクトがありました。これだけ大人数の親戚が集まるのも今回が最後でしょうね。亡くなった伯父さんも自分が建てた木造家屋によもやこんなに大勢の親類が集まることは想像していなかったと思います。

長男として生まれ、弟や妹が家を離れる際に全員の仕事の道筋をつけ、それぞれが困った時は人柱となって側に寄り添ったと聞きました。私の父親曰く「面接を受けに行く数百円の交通費を握らせてもらえなかったら今は無かった」と言うほど貧乏、質素、粗末という言葉が日常のたくましくも苦労が絶えなかった昭和一桁世代。兄弟からの人望が厚かったことが偲ばれます。

DEAH 「死」とは何か – 面白すぎる本 – en1

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