真実よりも事実からの予測と評価の可視化が優先する時代

ひとりごと
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久しぶりにテレビを見ました。

テレビの前に座って「今からテレビを見るぞ」という態勢をとったのは約10年ぶりではないかと思います。たまたま数年前に税理士とやりとりしたメールを見ていたのですが、私は「数年でテレビはなくなる」と言い切っている文面を見て苦笑いしつつ「でもやっぱり無くなるだろうな」と思いながら約1時間をテレビに捧げました。

時間を捧げた番組はNHKの「新日本風土記」

予算がふんだんにあるのかどうかわかりませんが、テレビを持っていなくても面白そうに感じるNHK番組はちらほら有り、新日本風土記もその一つでこの番組のテーマ曲「あはがり」も好きな曲のひとつです。

昨日見た番組内容は「SL」で、エネルギー革命と共に電化して姿を消した蒸気機関車が消えた後になって各地で復活している内容でした。それぞれのニュースはバラバラで聞き及ぶことですが、改めて1つにまとめられた内容を見ると気づきも多いですね。

それにしても老人しか映らない番組というのも…

番組は2016年の再放送で、その殆どが老人しか映っていない印象でした。鉄道に人生をオーバーラップ出来る人それぞれの思い出の懐古シーンばかり。ナレーションでも「むかしはモダン、いまはレトロ」みたいな行があったと思います。

人それぞれ感じ方は異なりますが、1人の力では運べない質量を産業革命の代名詞である蒸気機関車が白煙をあげながら疾走する姿は確かに力強いものがあり、動きの全てが目に見える現象で、その大きな鉄の塊を動かしていた時代は人間が機械の一部のような動きといえども石炭を投下している姿から「社会に貢献している」「人間が動かしている」「出来なかったことが出来るようになる」といったことをひしひしと感じます。

しかし懐かしむ姿が映るも9割以上が老人のカットばかり。今は2018年ですから既にお亡くなりの方も多い映像だろうと妄想しながら見ていました。

目に映るもの全てが高齢者色が強い時代を生きる子どもたち

テレビを見続ける時代ではないのでそんなことは気にすることでもなく若者は若者の感性や嗅覚で輪を作ることではありますが、時代の全体を捉えて部分を最適化するには既に手遅れ感があるほど高齢者ばかりが映っている番組が2016年制作。

番組紹介文に「それらの文化は、急速な近代化と長期不況、高齢化の中で、失われつつある現実もある…映像遺産として未来へ伝える。」と書かれている通りです。つまり新日本風土記は映像遺書みたいなもので「まもなく日本から姿を消すものはコレですよ」ということになります。

番組開始当初はここまで意識されていなかったと思いますが、撮り貯めたものを振り返って見ると「この年のこの月から社会の雰囲気が変わった」というポイントがあるでしょうね。つい最近の私たちが懐古した共通映像はせいぜい戦前戦後のもので、それは殆ど同じ映像をプロパガンダ的に受け取って勝手に咀嚼するだけですが、今はそういう全世代で懐かしめることを片っ端から消している時代かもしれません。

いずれ夏の風物詩「花火大会」も消えます。無意識で受け継がれてきたことが意識しないと受け継がれないことの意味を理解すると民族としては閉店ガラガラの方向へ進んでいるのに、今できることは「今を積み重ねる」という近目な視点が外せないのが良いのか悪いのか。難しい時代ですね。「花火?YouTubeで見たことある」という人だらけになる時代まであと少しです。

常に全体を把握していないと1-2年で浦島太郎になる時代

  1. インターネットを知らない人
  2. 名前は知っていても使えない人
  3. 使っていても意味は知らない人
  4. 使い方と意味は理解していても変化に気づけない人
  5. 思考がインターネット化した人
  6. 次なる新たな人

1つのことに対してにこれだけ世代ごとに認識の差異があるのも歴史的に初めてのことで、それが社会基盤に食い込む姿は「SLが懐かしい」という人とは対極なのに人口比率は小さく、アナログでしか懐古を感じられない人口が多い時代。

別の言い方だと…

  1. 携帯電話が要らない人
  2. スマホは知っていても使えない人
  3. スマホが使えても意味はわかってない人
  4. スマホを使っていても変化に気づけない人
  5. 生活行動がスマホ化してる人
  6. 次なる新たな人

このなかで一番注意すべきは4番目だと思います。しかし経済的重荷を背負った世代であり対応力は限界を超えています。だから無視している、無視されている感もあります。

一度でも全体把握することを怠るとあっという間に社会の中で透明人間化してしまいます。「機能は一緒だし生活に不要で支障が無いから2-3世代古い機種のスマホでOK」ということが独身でサイクル化しても問題なかった時代のスピード感覚が心地よいと思って浸っていると、一瞬で時代に抜き去られ、気がつけば浦島太郎。それがここ10年以内の間に起っていることだと思います。

2009年の新聞紙面はまだ緩やかな社会に感じた

つい先日野良仕事をしながら2009年の新聞を目にしました。つい最近のことで大きな変化がないように感じることですが新聞紙面からインターネット臭が感じられません。それが今では全てインターネットを土台に動いているわけです。

昔とは異なる意で経済性、生産性、合理性を人生の目的や社会の総意に捉えてしてしまうと、そういう世代間の隙間を埋めることなくどこまでも個人プレー色が強くなり、「SL」の話しも「映像遺産として未来へ伝える意味ある?」みたいな思考になっちゃいますよね。

そういう今までの価値観が日々コロコロと変わることに対応することを怠ると社会においてけぼりになる感覚と、自然の摂理を無視してもコロコロと変わることに対応する自分の立ち位置って不自然なのに止められないし、止めようともしていないところを見ると、未来は倫理観なんて消える時代が来るんですかね。ダーウィン語録のように変化できなければ生き残れない時代ですが、真理を捉えた議論が無ければもはや民族や国籍すら無意味で殺伐とした時代の幕開けにも感じる今日この頃です。

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