1980年代前半に生まれた名前のない世代 – 1982

ありがたい一冊
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以前に世間的には登山家・冒険家で私には「表現者」がしっくりきた栗城さんが亡くなられたことを書き、35歳という年齢が気になり、部屋の中をゴソゴソして見つけたので読み返しました。

世代議論は不毛でこんなことをメモできるのも今ぐらいで、これから先はどーやっても括れない連続性とスピードで切れ目がわかりにくい。そのうちAIが整理してくれるでしょうし、全体が見えにくい時代表現の名残にも感じます。

ぼんやりとひとくくりに表現できない時代(世代)

今や35-6歳なんですね。一般的には氷河期世代とかポスト団塊Jrと括られております。

中でも1982年を世代と世代の隙間や転換時期の幅として捉えた本。もちろん仮説ですが。

この世代表現って堺屋太一さんがマジョリティに命名して以降が記憶されていると思いますが、それにしても団塊jr以降はろくな命名がないですな。みなさまもそう思うでしょ?そうやって一括りにされるとケッタクソ悪い、みたいな。

でもなぁ、分けることで理解しやすい利点もありますし… とか思ってみたり。

 

なんとも書きにくい読書感想文

改めて読み返しても衝撃度が高く…

まず帯に「自己露出のない透明人間めいた語り口」とは言えて妙な感覚で…

オジサンである私が「なんとなく」という曖昧な言葉をスッと書いてしまう辺りも消化できないもどかしさを感じますが、その理由も「なんとなく」この本で触れられています。

著者が1983年生まれということもあってかリアリティのある細かい描写が多くの引用と共に時系列でまとめられています。そしてその世代の事件が羅列されており、表層的に見るとアニメ、ゲーム、携帯電話、ネットなどの時代変遷と事件を並べ、各種引用でオチをつけた文が続きます。

際立つ論点は感じられず、それこそが論点ではないかとも感じます。

一回り上の私が読んで「ザックリと空気感だけは理解できる」とでも申しましょうか…。

この本はなにかを教わる本ではなく、ネットでよくある「まとめページ」の如く整理してみたものの歴史的に見ても前例がないほど変化が大きすぎる30年間すぎて、起こった事件内容が理解不能なレベルばかりであり、それが今もってなお時代として継続している不気味さという意味で私には衝撃度が高い本。

空気のような内容なのに重さを感じる一冊です。

23ページに1980年の紹介としてボディコンスーツ姿の写真が載っているのですが私個人としは認識が低くく、これを楽しまれたのは私より少し上世代の印象。私もマハラジャ、ベルファーレ、キング&クイーンといった単語を記憶していますしディスコ音楽も大流行していたのを覚えていますが実体験がないので詳しくない世代になります。

(※東京の若者とストリートファッション・カルチャーの記録)

いつ見ても肩パットが際立つ印象で…

そこで電卓を叩いて出てきた数字からピークを楽しまれていたのは2018年現在50-55歳ぐらの方だと探り当てて検索するとマイナビ(2017/04/18)記事に「まさに『ワンレン・ボディコン・ハイヒール』でした」(58歳女性/その他/その他・専業主婦等)と書かれていて愕然。

パソコンを前にリアルに口があんぐり状態。2019年に60歳ですって。

YouTubeで検索して皆様もご一緒に。口があんぐりしますから。

ちょっと横道にそれますが…

バブルを謳歌できたのは今の50-65歳ぐらいですかね。羽センスを手にパンツを見せながら踊ったのが青春時代という方々がまもなく前期高齢者ということに衝撃です。まあこういう整理の後でTik Tokの「#家族」を目にすると最強二世代として理解できる気もします。

ちなみに私が社会に出た頃ベルファーレは消えます。これかバブル終了の鐘の音です。いま48-49歳の方はバブルで食い散らかした宴の雰囲気をかろうじて知ってる人ですが、46-47歳ぐらいだと跡形もない廃墟というぐらい違います。

ちょっと横道にそれましたけど、久しぶりに読んで印象的なくだりが1ヶ所ありました。

先回は全く気にならなかったのに妙に引っかかりました。前後の文脈からジワジワきていたのですがトドメの一撃は…

彼らが椅子に座ってそういう単純で強烈な刺激を受け取る安らかな環境と、画面の中の波乱万丈は著しい対比を成す。回線の向こうで何が起ころうと、経験を伴わなければ痛くも痒くもない。群衆がひとり死ぬたびに心を痛めていたら、映画やニュースの一本も、漫画の一冊も読めない。

この一文がグサッと刺さりました。

グサッと刺さった理由を文字にすることに抵抗を感じるというのがオジサンがオジサン年齢たるゆえんですが、年齢がひと回り違うとアッサリと文字にできるということ。少々奥歯にモノが詰まった…これは別の機会にメモしたいと思います。

この一節に触れた瞬間「あ、80年代前半生まれだとネットと現実の境目が消えて一体化する」と変換している自分がいました。ここでは何度かメモしていますが「インターネットがまったくない時代・状態・生活と分けて考えないと整理できない感覚が消える世代の境目」と感じたわけです

こういうことは日常生活ではどーでもいいことですが政治だの経済だのと絡めだすとかなりトンチンカンな動きを嗅覚として察知できる第六感とでも申しましょうか。そんなこんなで自分なりの整理ができました。それにしても改めて文字で見ると色々ありました。

時代…

 

各種事件に関しては…

この歳になっても親の経験が欠落した人生を歩んでいるので文字にするのもおこがましく感じますが、一言で言えば「愛情不足」を感じる事件ばかりです。

あらゆることに対して親子なのに他人のような距離感を感じます。常に一定の距離感。

今では両親共働きが常識となりつつあり、自分がその立場であったらよほど性根を据えて生活を捉えていなければ親子の接点は極限まで減る一方で、子どもとしての寂しさを想像するに、子どものはち切れんばかりの叫びや信号を親が察知できない社会状態ではないかと思うと…。

だれもが愛しい子どもとして生まれ、大人になる前に起こす事件は特にそう思う。

子育てのような未経験のことに取り組むにはそれなりに考え立ち止まる時間も必要で、2人目や3人目ならいざしらず1人目はすべてが初体験となれば愛情表現の意味すら戸惑うと想像し、やはり子育てには親の時間確保が最重要なのにお金に縛られ仕事に振り回される無茶がローテーションする時代です。

その昔「豊かさとはなにか」なんて本もありましたが…

いまの20代は結婚に前向きな傾向もあるというニュースに「少し潮目が変わるかなぁ」なんて思いますが、いずれにしても肌で触れ合い、互いの存在を認め、確認し合うような愛情を注いだり、逆に子どもからも感じたりということが大事で、その本質はネット時代の今こそ子どもとの時間を増やす重要性を感じます。

そのことを真剣に考えないと透明人間が永遠に生まれ続ける。

思考停止の親が子育てに「スマホ動画とAIスピーカーで子守ヤッホー」とかやっていたらそのうち大事故が起こるでしょうね。

見えない部分を見る努力が必要だと思う

この問題の根は…たぶん教育の崩壊でしょうね。

 

「大人はマジでわかっていない」と感じながらとうとう自分が大人になってしまった

私もわかってない年齢かもしれませんが久しぶりに読み返しながら「やっぱりカオスな時代」と感じました。

たとえばスーパーに行って買い物をしながらご近所の方と会話しているシーンで「あ、おたくも今晩はカレー?ウチもそうしようかな…」なんてシーン。ちょっと昭和的ですがこんな会話はありきたりのことですよね。

ユニクロのようなお店で商品を眺めながら自分と他人が同じものを買っても気にならないですよね。(気にしてたら感覚がズレてますが…)サイズやデザインなどが自分の好みに合うことがポイントなので「あの人も一緒だ」と思っても「あの人が買うなら私は買わない」とはならない。

でもそういう会話には行間があって「どこの家庭も切り詰めないと生活が大変だ」とか「子どもがカレー好きっていうのは一緒か」とか「やっぱりこのレギンスみんな良いと思ってるんだ」みたいなことを考えながら買い物をしていると思います。

「80年代前半生まれだとでネットと現実の境目が消えて一体化する」と書きましたが、ネットでも起こっている現象もまったく一緒なんです。たとえば年齢が上がるほど文字を文字としてしか認識できない度が増す気がしています。

先に触れた買い物だと会話してないことも脳内で自動変換して処理できることが、ネットで文字になった瞬間に自動変換せず鵜呑みする感覚。

電話で相手の声色から「あ、今日悲しいことがあったのかな?寂しいことがあったのかな?」って思うことってあるじゃないですか。あれの文字版です。表現方法に境目が消えてるんだから当人にとってはその少ない文字が「表現のすべて」というのはありえる。

 

つまり「ネットの書き込み = 本音」という時代になっている

こういう捉え方こそがジジイ臭さを感じさせるわけですが…

ネット記事のコメント欄を読んで色んな意見を垣間見ることが出来ます。書き手は25歳かもしれないし60歳かもしれない。それが意見として一致することもあれば異なることもある。場合によっては炎上する場合も。

ポイントは文字としてしか受け止めていないと再び類似事件が起こり得る気がします。よくコメントに書かれている「書き込んでいる人の年齢が知りたい」というやつです。

例えば戦争の話は誰でも出来ますが当事者以外は真実味がない。

当事者年齢に近いほど殺し合いの行間を読める度合いが濃く、離れるほど昔話感覚。それらはすべて目に見える時代の話しですが、この本の「1982」世代からは目に見えないことを勝手に解釈して自己消化するなんて時代に突然変わっており、同じ道具を使っていながらノーテンキな大人たちは正体が掴めないまま右往左往している印象です。

たぶん今でもワイドショーだと「ネットではこんなことが」みたいな引用をしていると思いますが、それこそが老害フィルター付きの表現。

「ネットでは」と枕詞をつけた瞬間に別世界の話しに聞こえます。

ワイドショーの司会者を30歳以下にしたら表現はまったく変わる。

これまた子育てをしていないものが書くのは恐縮ですが、「ネットがなかったので現実と切り分けてしか処理できない親」と「ネットと現実が一緒の子」の関係は歴史上初なので大変なんてもんじゃないはずです。

LINEで親子が文字バトルしながらつながっていれば関係が緩和されることは想像できますしそんな動画も増え、いまとなっては当たり前なんですが、当時は当たり前ではない真空時代であり、声なき声を持っている世代に感じたわけです。

ただ閉塞感が強い人ほど使い方を理解していない大人へのアンチテーゼ的な文字使いがキツく感じる節もあり、そこに含まれる要素に気付けない大人は文章に振り回されることになると思います。

私より上の世代が若者の言葉や文字の隠された意味を捉えようとしない限り「書いていることが本当かどうか分からないような書き方」の認識で終わり。

少しずつ親子がネットでもコミュニケーションが可能な世代が増えることでネットを正しく使わないと社会が混乱することが分かる人も増えてはいるのですが…。

「なう」と呟いていたころが懐かしい…。10年前のツイートを振り返ってみよう

こんな記事を見ると確かに変化はしているんだけと、今までは手探り状態ということに気づかないうちにアプリに馴染ませアプデするのがネット商売なので変化の境目がないというか、突如なんの前触れもなく空気が浸透して使わなくなるわけで、そういうことがやっと説明なくやりとり出来る親子関係という時代なのでしょうね。

この本を読み終えて「戦争を知らない大人たち」を思い出しました。かなり前の曲ですが、この若者たちの年齢を知り、この歌詞が生まれる意味を考え、そのアンチテーゼとなる曲との再生回数の差こそが認識の差そのものかもしれません。なにも感じないかな。

とまぁ好き勝手書いておりますが少しでも気持ちを知った上で会話するとしないとでは深みも違ってきますし捨てられない本ですね。

本書タイトル前後の方が本当の意味でデジアナ変換してくれた功労者だと私は思います。その方々が「リアルもデジタルも一緒。境はないですよ」と教えてくれた印象。

どの時代でも犯罪の犠牲は筆舌し難いですが76、86、96世代などの節目を見るに、デジタル認識にも個人差があって当然にしては変化スピードが爆速すぎるというのが私の感覚です。

ちなみに昨日ふと感じたことは「あ、もうAI時代に入った」です。

未来のことではなく過去形の空気感。そういう感覚が日常生活で突如舞い降りてきて「サインは出してたよ。気付けないアンタが鈍い」なんて時代ですからアジャストできるポイントは限りなく先頭の位置じゃないと大変ですよね。ぼちぼちWeb4.0とか言ってるわけで、非連続的思考が基本みたいなネットですし。

 

サイレントマジョリティ意識が必要かも

いつにもまして酷い感想文となりましたが「1982」に関係なく時代と時代の間には必ず「尖った個性の人が現れる」印象です。当たり前ですよね、何かのビフォーアフターですから。

時代は途切れることなく続きますがどこかに変化ポイントがあるわけで、漫然とした視点では見落としがちな「転換点に気づけるといいけどなぁ」なんて思いながら読み返していました。

この世代がどうのこうのではなく、つながり合う別世代の問題が隠れているから際立つように見えるだけかもしれません。そのサイレントマジョリティは書くに及ばずです。

バブルで浮世を楽しんだ問題を表層的には潰したり消したりして終えたかに見えても、本質は未だ処理されず引きずったままです。なにせ多くの若者がお金を増やせない社会。そういう視点でバブル時代の動画やノーテンキなコメントを見ると反面教師的にお金の意味を考えさせられます。

いまの若者がバブル時代を謳歌した、今還暦を迎えようとする人々のアホ動画をみて「この人たちなに考えて踊ってんの?」と脊髄反射してくれるとよいですが物事をどう捉えるかは自分のフィルター次第。

頑張らねばと襟を正す思いの一冊です。

 

【2022.07.10 追記】

なんだか急にアクセスが増えたと思ったら元首相暗殺犯の年齢「41歳」が原因のようです。

今は参院選の真っ最中なのでマスコミも歯切れの悪い報道内容だそうですが、表層的には平和国家ですから凶悪に感じます。

暗殺の瞬間を見ますと元首相はふりむき様に犯人の顔を確認した直後に倒れたように見えました。このときなにを思っていらしたか。なにかを思い返す途中で記憶が途絶えたかもしれません。

野党もマスコミも調子にのりすぎて、いわゆる「森加計桜」でガーガー言われた印象も強いのですが、奥様やご親族はさぞ無念だと思います。大小はあれども国民のために尽くした結果、その国民によって殺されたのですから。

こういう事件が起こるたびに毎回同じことを思います。

その犯人にもまったく心が汚れていない可愛い赤ちゃん時代があったということ。

どこかで道を誤るポイントがあるわけですが、今のように「共働きが常識という非常識」が固定化すると今後も類似案件が増えると思います。

子どもがちいさい時は親子が共学する時間が必要で、子どもをひとりの人間として尊重することはあっても大人社会の経済都合に合わせる育て方は間違っていると思います。どんなに優れた教育を受けさせたとしても、子どもが子どもとして過ごせる時代を減らすかぎり問題が続くと思います。

インターネットが登場してかれこれ30年です。ネットの歩き方も一巡し、(たぶん)本当の意味での分散型(web 5.0)も視野に入りはじめたと思いますし、しばらくはメタバースも流行ると思いますが、しょせんは現実社会の逃避先で終わりだと思います。

現実社会を恐怖で凍りつかせると社会インフラが機能しないことでコストが上がり、結果リアルなコミュニケーションを極限まで減らすことで全人類が強制的にメタバースへ追い込まれるかもしれません。この時代を生きるにはアウトローを楽しめる心を鍛えていないと無理なわけで、殺伐とした時代へ向かっていますね。

今回は宗教絡み(というか、私の世代は「壺」の印象しかないですが)この根本原因を辿ると親が道を外したことで子どもの人生が狂ったと仮定すると、それを防げるのは教育しかないのでは?と思います。結果論で言えば親の教育から壊れていたということですが、つまりそれは「戦後の教育がちょっとおかしい」ということだと思います。

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